永遠の凝視について亀井はこんな風にいう。「何を凝視するか。いうまでもなく人間の状態を、その矛盾を、その懐疑を、その抵抗を、反宗教的なものすら凝視して止まぬものでなかったならば、大慈大恋とは言えますまい。背信をも、敵をも、全衆生を凝視することに於いて摂取不捨であらねばなりませぬ」。随分と多くのものを凝視する必要があるものかなと。
亀井はキリスト教を捨ててマルクス主義に傾倒したが、「三・一五共産党弾圧事件」で逮捕され、重大容疑でないにも関わらず2年6か月も独房に収監された。この時亀井は組織離反を決意したが、そのことで裏切り者・背信者の謗りを受けることを何より恐れていた。結局亀井は共産党活動転向上申書を書いて釈放となる。これはまあ、キリスト教弾圧の「踏絵」のようなもの。
その後亀井は親鸞に傾倒する。亀井はこんにちの宗派仏教を否定し親鸞唯ひとりに直結する浄土真宗門徒であり続けた。亀井は、「救い」を求めて仏教に思いを凝らしたと述べている。キリスト教からマルクス主義へと流転の人生を送った亀井にとって救いは必要だった。したがって、仏教に入信すれば安心が得られる、心の動揺も収まり、悟りも開かれると期待した。
ところが、親鸞に邂逅してその思いは完全に破砕されたという。人間として悟りを開くことなどあり得えうべからずと考えたからだ。親鸞の文献を読むにつれ、入信すれば益々不安になる、地獄は一定棲家というところへ追放されてしまう。自己計量による一切の救済観念の破壊であって、救われるどころではなかったというなどは、亀井の感じた難解な思いによる。
賢人の思考回路や思索は一般人には難しい。亀井はそれらについてこう述べる。「仏性とは眠りを覚ましてくれるものでなければならず、これまで見えず、無自覚に過ごしてきたものを、ハッキリ見せてくれる明確な、「知性」、永遠の知性でなければならなかった。愛の無常も、罪の意識も、我々のはからいでなく、この与えられた明晰の所作であらねばならない。
その『我』を絶えず警戒する一つの叱責であるべき筈のもの。だから入信すれば不安になる。救われざる存在の確認になるのです」。この意味を理解しようとするだけで相当に頭を酷使せねばならぬが、これは凡人が賢人に少しでも近づくためでもある。亀井は親鸞に触れることで、「私はあなたを慰めることが出来ない」という親鸞の声を聞いているのだった。
そこで彼が至ったのは、永遠の愛というものがあるとするなら、それは永遠の凝視でなければならない」に辿り着く。つまり仏性とは、一人間を永遠に凝視してくれる明晰の眼であり、人間社会に在って誰が永続的に瞬時も休まず自己を見つめてくれているか。それは親子と恋人かも知れない。それとてやがては途切れる。「私はこの寂寥のうちに仏性の凝視力を仰ぐ」。
何という表現であろう。何が頭の良さかといわれもするが、「賢人」というのは感受性に長けた人をいうのではないか?凄まじき洞察力を感じる。終わらぬ愛は続くもの。愛に於いての永遠なるものを『智恵子抄』に見るが、愛の無常性はそこらに散らばっている。それを、快楽と幸福の哀しさと呼ぶのは間違いともいえまい。瞬間の恋、瞬間の快楽は打ち上げ花火のようでもある。
人は恋や快楽に溺れるが、始めない恋に終りはなく、始めぬ快楽に哀しき結末はない。人の心には偶像化された誰かが存在する。異性であったり同性であったり、先人であったり、それらは永遠の凝視である場合もある。中でも異性に対する執着心は、恋愛という至上の幸福にもとるからだろうが、いかに文明が進歩しようとも、恋愛が進歩することはない。
恋愛とは原始的であり、女を追う男の眼にはまるで獲物を追う猟師のごとき目の輝きがあるが、どのように錯乱したのか、実際に追いつめた異性を殺してしまうのはあまりに解せない。もっとも、捕らえる時点で誤った行為であろう。恋愛は主体的であらねばならない。最近何かと殺人が多いように感じる。人間は獲物ではなかろうが、もしやそのような感覚なのだろうか。
人間は他人について空想的であり、自己に於いてもそうである。相手の僅かばかりのことに慰められるのは、僅かなことが自分を悩ますからである。愛は一般的に無常である。常に変化し、一定でないことを無常という。時間の中にあるもは絶えず変化をするように、愛も時間の中にある。時間的に限定を設けた愛など存在するのか。おそらく存在はしない。
人は永遠に愛を欲するが、愛は無常である。「永遠の愛」という響きは詩的で美しい。詩人は愛を盲目に描くが、詩人であるがゆえに許される。「旅に出よう」という詩を書いて、本当に旅立った高野悦子。彼女は20歳であった。彼女がなぜ旅立った理由は分からない。多くの人がその理由を知ろうと彼女の日記を求める。人の死ぬ理由をなぜ人は知りたいのか?
なぜ山に登る?「そこに山があるから」。なぜ旅にでる?「旅に出たいから」。なぜ自殺するのか?「死にたいから…」。素朴だが正直な理由である。「生きていたくないから…」と、これも同じ理由。もし自分が自殺するとして、死ぬ理由を正確に書けるだろうか?おそらく書けない。察するに遺書は未練であろうから、未練たらしく遺書など書かずにどこかに消える。
黙して死ぬのが美しい。「葬式無用、戒名不用」と要件だけ伝えた白洲次郎の粋。ニホンザルのボスは死期を迎えると行方不明になる。人知れず(猿知れず)奥山に身を隠すという。人はなぜにそれとわかるように自殺するのか?これとて自己の顕示欲か?自然に訪れる死を待つと思うが、身内以外の他人に死骸をみられたくはない。ならば、「葬式無用・戒名不用」となる。