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Channel: 死ぬまで生きよう!
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小冊子に秘めた恋

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時々書棚から手にとる本がある。かつて全書判と呼ばれたサイズだが、現在ではB6判変型もしくは小B6判と呼ばれる。現在の文庫判と呼ばれるのはA6判(105×148)で、それより幾分大きめの117×174となっているが、ハードカバーでケース入りと豪華仕様。昔の本の造りは丁寧でゴージャスだった。大切な本のタイトルは『愛の無常について』、著者は亀井勝一郎である。

大切にする理由は後に記すとして、213ページの同書は何度読んでも読みつくせぬ発見がある。目次は4つに分かれ、第一章「精神について」、第二章「愛の無常について」、第三章「罪の意識について」、終章「永遠の凝視」となっている。「人間とは何であるか」、「汝自身は何ものであるか」などの命題が、哲学者でない亀井の観念性を排除した世俗的視点で記されている。

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序文の書きだしは、「己を白紙に還し、すべての偏見、先入観、イデオロギーといったものを捨て去って、たったいま生まれたばかりのような眼で、人間をみられないものだろうか」とある。己を白紙に還す…そんなことができるのか?すべての偏見や先入観やイデオロギーを捨てろ…そんなことが可能か?だからか、「…ものだろうか?」となっている。

白紙に還すとはこれまで得た知識・経験を排除し真っ白にすること。パソコンのハードディスクの初期化はできても大脳のフォーマットはできない。一切の偏見、先入観、イデオロギーを捨て去って生まれたばかりの子どもの眼で人間をみれば…これは比喩であろう。「無心」が比喩であるように。老荘を「無の思想」というが、完全無欠の無にはなれない。

一般的に無から有は生まれないとされるが、「有は無から生じるる」との考えが老荘思想。老子第四十章は、「天下の物は有より生じ、有は無より生ず」とあり、「有は有自身から生じるもので、有を生ぜしめるような他者はない」との意味だ。人間の言葉はありのままの真理をあらわすのに不向き。それが、「弁ずるは黙するにしかず」(荘子)などとなる。

沈黙だけが真理を伝える唯一の道ではないが、沈黙は言葉に対立するもの、互いに対立するものは同じ次元上にある。観念的な思想に惹かれた頃が懐かしい。分からぬことを分かっているかの如く振舞うのが若者で、自分もそうだったが、今では、「観念など所詮は空論」と思っている。空論と知りつつ観念的な言葉で自己を誤魔化すことを無意識にやっている。

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日本社会党はかつて存在した政党。理念を持たない“観念の政党”と揶揄され、停滞から凋落を辿り、遂には消滅した。自衛隊を違憲とし、90年の湾岸危機の際も自衛隊派遣に反対するなど、党内の現実路線と原則路線の対立が激しく、途絶えることがなかった。山花委員長時代の執行部にあっては、現実的な社民主義に転換させようと奮闘したが実現しなかった。

日常において現実と観念は対立しながら共存するが、原体験の少ない若者が観念を拠り所にするのは仕方ないことだが、耳順の域になれば観念思考は卒業すべきではないか。おじいちゃんが孫に観念的な誤魔化し言葉を諭しても知恵とはならない。現実社会の先人としておじいちゃんとしては、現実と観念の間におこる矛盾対立を分かりやすく諭すべきではないか。

「観念論」はキリスト教哲学からのドイツ観念論の系譜である。対する「唯物論」はヘーゲル左派からのマルクス主義で、「実在論」は新しい言い方だ。観念論といい始めた理由は、世界全体を神の観念に帰し、神が世界を調和の下に統治をするとの理屈が、教会や王室や哲学者の権威付けに必要であり、世界全体を神の観念に帰したかったということだった。

世界は観念で動いてはいないが、我々は自身の観念の中でしか世界を認識出来ない。が、世界は物質だけでもなく、ノーベル文学賞を受賞したラッセルが、「第三の実在」という論文で述べている。平たくいうなら、観念でも物質でも無い何ものかがあり得ると言う事だが、一般的な観念論者にはそこまでの素養なきままに、現実逃避を言葉で操っているよう感じられる。

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現実への無責任に徹した人たちは、観念論を知的優越感として楽しんでいる。この世は物質で構成される実在であるが、認識するに当たっては観念的でしかない。「実在論哲学」なる思考法もあるが興味はない。自分はひたすら実用主義的でありたい。実在は果たして観念なのか物質なのかより、「実在をどう捉えるのが正しいのか?」について考えたい。

プラグマティズム(実用主義)は、概念や認識などの客観的な結果で科学的志向するヨーロッパの観念論的哲学とは一線を画すアメリカ的な哲学である。20歳前後の青年期にはじめて手にしたドイツ哲学書の感覚は奇妙なものだった。とんと理解できぬ深遠な世界がそこには記されていたが、内容に気後れしながらも、解かったような顔をするのが関の山だった。

あれが若さ、あれを若さという。同じ観念世界であれ、文学にはそこまでの難解さはなく、抽象的観念小説に苛立ちは起こらない。酔うことのできない味気無さはあっても、まったく書物に届かないもどかしさはない。いろいろと過去の体験を思考すれど、難解な哲学書を前にしたときの、あの異和感の正体を説明するのは難しい。40年以上前の記憶をとどめてはいない。

難解な哲学書は知識の習得なのかカッコづけなのか、後者は若者の特質であろう。現代の若者はどうなのだろうか?まあ、せいぜい背伸びをするがいい。そのうち疲れて踵を地につけるようになるとは思う。物事が分かることの最も大きなことは、自分を分かることで、古人はそれを「足るを知る」と形容した。自らの自尊心に問いかける時期はおそらく到来する。

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自分は五賢人から触発は受けた。『愛の無常について』は、その先鞭だったろうか。この書籍は戴いたもの。それもあってか頁を開くときに相手女性の面影の一切が今なお自分の脳裏に棲みついているのを感じるのだ。若いというのは何にもまして初心であり無知であって、人の心の中を覗き見ることをできない。予感と想像だけが心のなかを通り過ぎていく。

しばしば人はこんなふうにいう。「あの時〇〇だったら、彼女と〇〇だったかも知れない」と、これも過去の悔いの一つである。〇〇ないからよき想い出だ。同窓会でも同じ言葉のやり取りがある。「ずっと君(あなた)のことを好きだった」、「あら、言ってくれたらよかったのに…」と、過去を現在時間で話し合うが、同書の終章「永遠の凝視」とは言い得ている。過去の実践なきに罪はない。

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