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コマダイ

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コマダイという言葉から一般人的な連想は駒大か。駒大とは駒澤大学だが、駒台を浮かべる人もいる。将棋が好きな人はともかくとして、将棋を指さない人でも駒台を連想する人もいよう。「それって鯛の種類か?」という人もあれでもいるかも知れん。調べると20種以上の鯛がいる。マダイ、キダイ、クロダイ、イシダイが一般的だが、自分はエボダイの干物に圧倒されたことがあった。

伊豆の網代に行ったとき、で初めて食したエボダイの干物の食感は、アジやカマスやフグの比ではなかったが、産地以外の一般的な市場で見ることはほとんどない。エボダイは正式な名をイボダイといい、古くから築地市場などで、「えぼだい」と呼ばれていた。甘味が強く、身離れが良いため干物にぴったりだが、水揚げ量の減少などから近年は国産のエボダイの干物は貴重である。

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      アジの干物は一枚食ったら、「ごちどうさま」だが、エボダイはなぜか二枚、三枚食べたくなる


たまにネット通販で購入するが初めて食した人はその味に驚くようだ。アジの開きとはまるで違って脂ものって、柔らかいのが特徴だ。ふと思い出したがむか~し、「わたしアジの開き大好きよ」という女に、「おれはアシの開きが好きなんだ」といったことがある。一瞬、意味が分からなかったのだろう。「アシの開きって…??」と口にしながら少し時間をおいて理解したのか、不機嫌だった。

「こんなつまらぬことを考えさせられた」という怒りなのか、顰蹙を買ったのが分かった。時々、顰蹙を買うのも自分をなかなか修正できない。なんとなく分かる顰蹙だが、正確にはどういう意味があるのか、ついでに調べてみた。顰蹙の「顰」は、顔をしかめる、眉をひそめるを意味し、「蹙」は、顔や額にシワを寄せること。つまり、そのような状態で不快の念を示す言葉になったらしい。

それに「買う」をつければ、「恨みを買う」、「反感を買う」と同様に、言動が原因で他人に悪感情をもたれたという意味になる。後で、「冗談、冗談」といっても許してもらえない場合もあり、事前に予測もできないなら“すっかたなかんべ”。表題の「コマダイ」から一人連想を楽しんで書いた。文は楽しみながら書くのがいい。書きながら笑うこともある。実は駒台を自作したということだ。

盤・駒に合わせた駒台も芸術の域になると、花梨や黒檀や桑材用いた高級品となるが、自作をした理由は、最近通い始めた公民館に駒台がないことが理由である。「備品として購入の予定はないのでできたら個人で用意して下さい」といわれた。所有の駒台はすべて6寸盤用で3寸盤には使えない。「大は小を兼ねる」というがこれは嘘だ。ならばと自作をするかと日曜大工店に行き、駒台を2点作った。

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   部材の端切れが詰め放題で100円。後はボンド少々で釘は未使用。製造原価は約110円也


長々と無用なことを書いたが、あったことだけを書く小学生の絵日記風にいえば、結局これだけのことである。もし、ツイッターに書くなら、「公民館に駒台がないので自作した」とたったの15行で済む。が、それでは楽しむための文にはならない。主食も大事だがオカズも大事。想像力こそ人間の息吹であろう。報告書を書いているのではないし、自分がTwitterを好まぬ理由はここにある。

なぜブログを書くのか?自らに問うたことがある。いろいろな要素や理由はあるが、突き詰めると所詮は自己顕示欲と結論した。自己顕示欲があって悪いわけではないが、我が自己顕示欲に向き合いながら、自己顕示欲のよくない点に留意してやればよし。自己顕示欲の強い人間にありがちなのが、他人の注意を惹きたい、自慢したい、人気者(評判)になりたいなどなど。

自己顕示欲は誰もが持つ承認欲求から派生しているので、自分を認められたい、大切な存在として扱われたい欲求が極度になりやすい。存在をアピールしたいのはいいが、見向きされないと落ち込み、人気がでれば“何様”的にもなろう。他人の評価に一喜一憂せず、自らの楽しみでやれば呪縛から解き放たれる。他にもいろいろあるが、これを抑えれば自己顕示欲は退治できる。

自分がいつも思うことは、自分を楽しませること。これが遊びの原点かと。他にもいろいろあるが、書くついでに引用すれば知識も広がり、自分の考えを客観的な視点で眺めることができる。書いている時の意識は主観だが、読み手だけになると、「これって本当に自分が書いたものか?」という視点に陥る。書くとき、読むとき、それほどの違いがあるのは驚きである。

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   自己顕示欲あってのタレント、政治家、文筆家だろうが、Twitterはケンカのツールかい? 

他人がSNSをどういう理由でやるのかを検索してみると以下の記事があった。「SNSをやらない派の人の方が人間関係も快適?」なるほど…。子どものいじめの原因にもつながるSNSは、まさに大人の縮図である。大人だから、言葉を荒げたり、人をボロカスにいっても、傷つかないとばかりに遣り合う著名人がいる。一般人の喧嘩なら目立ちもせぬが、有名人や著名人はマスコミが取り上げる。

「バカだのクソだの」と、いってる自分がバカだと思わないのだろう。「品の悪さよ屁の臭さ」という言葉があるが、それどころではない近年の現象である。こうした行為こそが最も甚だしき自己顕示欲の権化であろう。ネットに老若男女はないから、子ども達はこういう大人のバカ丸出しの言い合いに刺激を受ける。「人を罵倒するにはこれくらい言っていいんだ」とばかり、大人から学ぶ。

TwitterやFacebookに振り回されている人は少なくない。部外者でも他人の言い合いや応酬が気になるようだ。なぜ気になるか?それが刺激となる。静かで穏やかな海原を眺めると心の刺激となる。平穏という感覚も刺激の一つだが、格闘技の刺激もこれまた刺激である。人間はどちらも好む。どちらが好むからと他方を貶す必要もないが、それも一つの自己抑制である。

その箍が外れると、正義論をかざして無用な参入をしてしまう。穏やかならぬ人たちに、「オマエラ、穏やかにせーよ」といって参入するのも解決というより、自己顕示欲である。そんな人たちに何かをいっても所詮は念仏で、飛び火となることもある。注意をすれば、「何をエラソーにいってんじゃねーよバカ」など返される。確かに、SNSに参入しない人の方が快適かも知れない。


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     一日は24時間もあるのだから、頻繁に利用しなければまた楽し。自分と会話することも可能だ


コマダイの表題がどこがコマダイ?で終わる。以前、こういう体験があった。ある映画の感想を書いたとき、「駄作の映画レビューです。これまでぼくが見た最低のレビューでした」。コメントの主は内緒の投稿で、彼の誠実な気持と自分は受け止めた。おそらく映画だけのレビューを期待したのだろう。そのことに罪はないが、自分は純粋な彼に罪を作ったと感じた。

コマダイの表題に期待して読む人もいようが、物事を直感的に結論づけようとすると、裏切られることもある。自分も若いころはそうであったし、裏切られっぱなしで腹の立つことが多かった。事実はいかにも気まぐれで、事実が容易に真実を語ろうとしない苛立ちだった。認識の過程はオワリのない過程である。自分の思いと違うものを許容する術を学ぶのが人間の生きる過程か。

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