「君はやっていいことと悪いことが分からない人間なのか?」、「彼は善悪のけじめもつかぬ人間だ!」などは結構耳にする他者批判。こういう批判はそれこそ自分たちが子どものころからあった。教師に叱られる場合は決まってこれだ。このようにいって叱れば教師は立派なひととなる。立派な人だから、相手を叱ることが許されるということだ。が、もし知能の優秀な子どもなら…
生徒:「善悪の判断くらい分かってますよ」
教師:「だったら何でよくないことをするんだ?」
生徒:「人間、理屈じゃないと思いますけどね」
教師:「君は何をいってるんだ?どういうことかいってみろ」
生徒:「悪いと知りながら誘惑にかられることってありません?」
教師:「誘惑にかられようと、悪いことはやってはいけないんだよ」
生徒:「悪いことってピンキリでしょう?善いことだって同じで、いちいち咎めていてもしょうがないと思いますけど…」
教師:「なんだ君は?子どものくせに生意気なこというもんじゃない」
生徒:「あなたは大人でしょう?子どもじみたこというもんじゃない」
こんなスーパー小学生がいたら面白い。こうまで論理的思考をされたら教師も生半可な気持ちでやってられないが、子どもは扱いやすいようにできているから楽。聞き分けのよい日本の子どもなら、どんなバカでも教師はやれる。善は善、悪は悪というが、ハッキリと二つに分かれているわけじゃない。それこそ小さな善悪についての判断は、個々の主観に委ねられる。
善行という行為は、人に施したり、お世話をしたり、隣人や友人に親切にするなどがある。結構なことだが、それをどういう意識でするか、行為者は問題にされるべきではないか。人に親切をするのは気持ちがよい。利他的行為にみえても実態は利己的な満足感である。親切にした行為は誇りたくもなろう。しかし、善行を受けた側にやりきれない負担を感じさせることもないわけではない。
施した善行の度合いが深いほど主従関係になりやすい。さらには施す側の気持、施された側の態度いかんによって、奴隷関係のようになることさえある。就職や何か斡旋してもらったことで、一生頭があがらない気持ちに陥ることもある。人にこうした貸しを作ることで満たされる人もいるから拘わらぬ方が利口だ。事前に分かればだが…。善意の名のもとに人を利用する人間は要注意。
「人に何かを頼むと快く引き受けてくれた、しかしその後に恩着せがましい言い方をされた」という経験は誰にもあるのでは?自分の周知度でもそういう人間は結構いる。二度と頼むものかとなる。人間関係の学習とはそういう人間を見極めることでもある。こういう気持ちを大事にすべきなのは、逆の場合も起こり得るからで、人間はされて嫌なことは相手にしないようすべきである。
人を批判することで何かが身につくなら大いに批判すべし。相手に善行をする場合、相手に嫌な思いを抱かせぬよう配慮すべきで、それをしない善行は悪行に等しい。これらは持論である。他人に施した善行を誇り、それを虚栄とし、貸しをつくったと相手を束縛するような人間に成るのはなぜ?人間の性格形成には多くの素因があるが、親の影響が大きい。
子どもに恩着せがましい言い方をする親を踏襲した子どもは、貸しを作りたい相手を好んで探すのか?純粋な善行為が悪に転嫁し、自分が気づかぬうちに人を傷つけることも起こり得る。が、「自分はまったく気づいていなかった」というのは言い訳にならない。そういう失敗を経て相手の心の在処を把握し、嫌な気持ちにさせぬよう少しづつでも配慮していくのが人間的成熟である。
その時は何も問題はなかったようにみえて、先になってギクシャクすることもある。善行はいつ悪に転化するか分からない、そういう自覚の元ですべきである。利が害になることもあるなら、利害なき人間関係に勝るものはない。相手に善意で何かを進呈したようでも潜在的には善意の押し付けだったりする。それで何かがあったときに、そのことを無意識に相手に突きつけたりするものだ。
(あのとき、〇〇してやったのに…)が蒸し返される。関係が悪化した途端、プレゼントを返せというケースは珍しくない。秋篠宮眞子さまのフィアンセの金銭問題は、どうもその匂いがするが、こんな怖ろしいことはない。人間関係は、ちょっとしたことがきっかけでどのようにも変わってしまう。誤解もあれば、思惑もあれば、故意な誘導もある。それらを正しく見極められるのか?
おそらく無理だ。殆どの人間の心には善人と悪人が同居し、それを踏まえて人間を見るのが常識といっても、これが難しい。やってよくないことを分かってやるのが人間なら、やっていいと分かっていてもできないのも人間。だから理屈通りには生きられない。社会には幾多の矛盾が存在するが、人生における様々な矛盾の根源は、人間が矛盾した生き物であるから起こる。
長いこと人間やれば見えてくる人間の実態。親を大切にせよ、孝行せよと口に出す親がいる。自分の母親もそうだった。父親の理は、子どもの自由を認めることだった。子どもはどちらの親に自発的な孝行心を抱くか?経験がなくとも想像力から答えは出る。人の自然な感情は、相手の自然な心の発露から生まれる。子どもに嫌われる親には必ず原因がある。