「ブログをはじめました」。の一言だけで、始まっていないブログにお目にかかることがある。まあ、誰でも始める時はそのように書くだろうから、その後のことを書いたわけでもなく、書かなかった理由を述べる必要もない。始めるつもりだったが、放置の理由はいろいろあるだろう。自分なんかは始めるといったら本当に始めるばかりか、徹底的にそれをやる。
これまで、何事もそうであった。自分にとって、「始める」とはそういうことだからか、人がそうでないのは理由の如何にかかわらず、「始める」が始まっていないのは不思議なことであもあった。それらからも人間は他人のことは分からない。「やる」といったらやる。「やらない」といったら徹底してやらない。これが自分の考え方、生き方で、自分でも好きなところだ。
そういうところの自分を好むのは、自分を裏切らないところでもある。おしなべてそれらは強い意識してやっていることでもあるが、時間が経つにすれ意識がなくなる。最初は意識を強いたとしても、行為はだんだん内面化されることになる。そこまでいけば意識がなくても勝手に行動がなされる。そういう自分であるのを知りながら、あえてそれでやってきた。
そして、それを善しとしてきた。何年かそのように生きてくると、自分という人間の代名詞となってしまう。つまり、自分のことを例える時、長所か短所かはともかく、「自分を一言でいうと、やることはやる、やらないことはやらない。どちらも徹底している」とあらわすことになる。長所・短所は人が決める事。これが自分といい切れる部分であるのは間違いない。
「自分から逃げるな」、「逃げるより戦え」、「男の一言」、「責任感」、「甘えの排除」などと、それらのものが加味されているのだろう。上の言葉はどれも好きだ。「自分とは何か?」、「自分とはどういう人間なのか?」を知るのは難しいが、自分はこうありたい、そのように向かっている、あの暁にある程度自覚出来たとき、自分が〇〇だと言い切ることは可能。
ゆえにか、「自分は〇〇」といえる。自分が何者かは、自分を客観的に見なければつかめない。主観的な自分は案外思い込みの場合がある。自分を別の自分の目で眺めてみると実に自分が見えてくるもので、そうすることで心の平穏が得られることがある。他人の目で自分を見ることで、自分を落ち着かせることができるから、つまらぬことで怒る自分にも笑える。
つまらぬことを喜ぶ自分に冷ややかでいれる。自身の喜怒哀楽を客観的に眺めると自分の正体が見えることがある。当たり前だが人間が物事をとらえるときに、「主観」、「客観」という二つの対立する立場から考えようとする。人によって個人差があるが、どうみても主観だけでしか視野に入れぬ人がいる。だから信じられぬことをいう。これは女性に多い。
いうまでもない、「主観」とは自分の個人的な感情や価値判断であり、「私はこれが好きだ、嫌いだ」などである。「客観」とは、個人の感情を抜きにして物事の性質をとらえる。たとえば、「これは堅い柔らかい、大きい、小さい」などの判断だが、厳密には「堅い・柔らかい、大きい・小さい」の基準は主観的だ。自己という主体から確実に離れることはできない。
ということから、主観が強い、客観性が強いなどと意識の軽減の問題となる。「わたしはこれを好む、あるいは嫌う、そういうわたしの心が存在する」というのが自我意識で、対する客観というのは、「わたしが好む好まざるに関係なく、このものは変わることなく存在する」という“物質の絶対性”である。こうした主観と客観の対立に疑問を投げかけたのが西田幾多郎。
つまり、「この世に確かなものなどない。確かに存在するのは、自分なりに感じ取る自分の心である」という考えを「唯心論」とし、物質の絶対性に拘り、「この世は物質のみで動く。見えぬものは真実でない」これを「唯物論」とした。西田は主観客観の対立は我々の思惟の要求より出る以上、心と物事の展開は両者を合わせて一つにすべきではないかと考えた。
そもそも、「私は私だ」、「目の前の物事は私から切り離されたもの」という認識自体が人間の思い込みで、事実の世界はそうした区別なしに存在する。「主観も客観も意識しない状況こそが真実である」との独自思想を打ち出した。著書『善の研究』ではこのように述べられている。「最深の宗教は、神人同体の上に成立し、神人合一の意義獲得こそが宗教の真意である。
即ち我々は意識の根底において自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙的精神を実験する」。少し難しいかもしれぬが西田は、「善とは自分の心の要求に応え、満足の気持ちになる」とする。さらに、「人間にとって最高の満足とは、ちっぽけな思いを超えた宇宙との一体感を得、自身の無限性を感じること」だという。西田はこれを、「純粋経験」と説明する。
見る自分と見られる物事が区別されずひとまとまりになった瞬間、これを純粋経験と呼ぶ。著書のタイトルに、「善」をつけたのは、「本書のテーマは人生の問題であり、人生にとって本当の善とは何かを解き明かす」とした。あらゆる宗教の根本を、「善」とした西田の思想は、仏教の禅思想が重要な出発点となっている。後に西田は鈴木大拙の影響で禅を知ることとなる。
禅は、まとまった教義をもたない。個々の修行者が勝手に座禅によって悟りを得る。したがって言葉や論理で、「悟りとは〇〇」などの教本がない。「自力求道」仏教を模索した曹洞宗の開祖道元は座禅による修行を説く。「座禅は悟るためでない」とし、「座禅の結果が悟りなのでなく、座禅そのものが、すでに悟りである」とし、これを、「修証一如」という言葉であらわす。