「千々の思いに乱れつつ」人は生き、かつ人は死ぬ。亀井勝一郎は自殺者を非難するのは傲慢とし、「自殺するほどに思いつめたその純粋さにかえって心打たれる」といっている。純粋であるがゆえに人間に与えられた美しい能力ともいい、「自然が人間に賦与する財宝のうちで最もすぐれた財宝は、人それぞれが自殺できること」と、プリニウスの言葉を引用した。
無理をしてまで生きることはない。これは一面真理だが、生きる努力を怠ったという見方もされよう。人が生きることは妥協であり、誤魔化しであり、そういう考えに批判的なら自殺は純粋といえるかも知れない。しかし、宗教はこの考えに反対する。キリスト教会が自殺を罪悪視したのは、神に捧げた命、帰依の絶対性から自殺をエゴイスティックな行為と定める。
ガラシャは明智光秀の三女。「花も花なれ、人も人なれ」。壮絶な最期を遂げている
「自らを限定するのは自己中心的で宗教的に許されるものではない」というキリスト教思想にショーペンハウエルは反抗するが、“自己評価は曖昧”という観点に立てば、宗教的思想の全否定はできない。人が自分に絶望するといっても、絶望とは自己判断である。しかし、何から何まで他者や神の判断を仰ぐことを正しいとも思わない。自己責任という言葉はそのためにある。
自殺をどうみるか?表向きの同情はあれ、他人からは滑稽に見える。宗教は、「救い」や、「悟り」を説くが、生きる力も与えるのか?宗教が自殺を禁じたところで生きる勇気を与えたことにならない。世の中には自殺を否定する人もいれば肯定する人もいる。言い分はあろうが、理屈をこねたところで自殺を防ぐことはできない。先月、豊橋市内の踏切で女子高生が電車に飛び込んだ。
「踏切内で背を向けて立っていた」と運転手はいう。列車に背を向けるのは恐怖を避けるから?死ぬのが怖い。そのことが自殺の抑止になる部分もあろうし、自殺には相当の覚悟がいるだろう。自殺者の心理は残された遺書などから伺い知ることはできるが、自殺する人がその死の直前までどんな気持ちでいたのかを正確に知ることはできない。すべては憶測である。
もし自殺するとして、その理由を正確に書けるだろうか?「これ」といった生々しい理由があったとして、人間の奥底にある気持ちを的確に表現できるのか?文学者ならできるとしても、遺書が文学的な虚実になる可能性がある。人が曖昧に人生を生きるように、人は曖昧に死を選ぶのかもしれない。だから、「千々の思いに乱れつつ…」人間は生き、人間は死ぬように思う。
新しいスニーカーを履いて旅立った少女。女の子らしい気持ちに胸が熱くなる
自殺には大層な理由などないのかもしれない。人が目の前にある生を選ぶように死を選ぶ…。「謎」とは絶対に解明できないから「謎」であり、「謎が解けた」程度のものを謎といえるのか。謎解きミステリー小説などというが、解けないものこそ真の謎であろう。信長を討った光秀の謎竜馬も暗殺の謎、歴史の謎を現代人が知ろうとするが、すべての謎は解釈に過ぎない。
父のこと、母のこと、子どもが親の実体を知る必要はない。親が子どもの実体を知る必要もない。親子も兄弟も所詮は他人、干渉すべきではない。知ることで何が満たされ何の役に立つ?アカの他人への不干渉は善意では?なぜ不倫をした、なぜ離婚をした、親の子殺し、子の親殺しなどは社会問題と思考するのはいいが、動機や真意は各自が推量すればいい。
事実とは本当にあった事、現実に存在する事柄をいい、 真実は嘘偽りのない事、本当の事。 似てはいるが事実は一つでも真実は複数あることになる。したがって、事実と真実が一致しないのは不思議なことではない。なぜなら、真実とは人それぞれが考える本当のこと(事実)であり、客観的ではない主観的なもの。だから100人いれば100通りの真実がある。
西田幾多郎は『善の研究』のなかで、「主観客観の対立は我々の思惟の要求より出ものであり、直接経験の事実ではない」とし、主観客観を意識しない状況こそが西田の説く、「真実の世界」とし、主観客観を超えた純粋経験こそが、「善」であるとした。人間が生きる上において為される、「法の順守」といった社会ルールや道徳なども実は客観的善に過ぎない。
「みんなより劣っている」という反省文を学校に提出。本来教師はこういう子の力になれ!
自殺は社会のルールに違反していない。ならば自殺は人の祈りに似た結末の一手段と考えられなくもない。これ以上善くもならず、悪くもならず、可もなく不可もない状況から人は死を選ぶとするなら、その狭間を生きたらどうなのかとの思いを抱くも、死にゆく者に狭間を生きる意味はないのだろう。しようとすればし、しないから死を選ぶ。死を楽な手段と選択するのだろう。
誰も人間を理解できない以上、自殺や犯罪は人間の不可解さから起こる。18歳にて華厳の滝に身を投じた藤村燥は、「万有の真相は唯一言にて悉す、曰く、不可解」。と死ぬ理由を書いている。彼は自ら思索尽くした果てに自殺した。彼の死は彼自身のもの、三島由紀夫の死がそうであるように。それによって思考停止を望んだのなら、何ら不可解と思わない。