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思考が停止する理由 🈡

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心を病む人に関わった経験からいうと結構難しい。心療は体系化された専門医療行為で、巷にある恋や夫婦や親子関係の悩みとちがい、人によっては大きな苦悩となる。義務でもボランティアでもない他人の悩みに関わるのは元気づけを願ってだが、咄嗟に自殺した女性もいた。人が人に関わる限界を把握し、被相談者は相談者の苦悩を刺激しない配慮が大切である。

個対個における人間関係にあって距離感が大事であるのを知る。苫米地英人に、『思考停止という病』という著書があるが読んではない。「なぜ、人は『考えること』をやめてしまうのか? 最高の人生はあなたの『考える力』によってしか手に入らない」などと大袈裟な営業用レビューが目に付くが、考えることはアイデアを出すことだから、思考停止は確かにマズイ。

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何がしかの問題に取り組むなら思考は欠かせない。強い相手に考えないで指しても将棋は勝てない。同書の読者レビューには、「思考停止の3大要因は、『前例主義』、『知識不足』、『ゴールがない』ことと同時に、これが脱却の秘訣でもある」とある。前例主義とは他人の受け売りのこと、知識不足はそのままの意味だが、ゴールがないとはどういう意味か?

別の読者レビューには、「自らゴールを設定するからコミットメントが生まれる」とあるように、到達したいと願う自己の人間的成熟をゴールというなら、どういう人間形成を目指すかについての目標であり、じっとしているだけで人は成長しない。目標への絶えまぬ努力は必然であろう。「受け売りを知識といわない」というが、自分はそうは思わない。問題なのは受け売り知識の丸暗記。

すべての芸事は模写(模倣)から始まるように、絵画も書も音楽も一切が人まねを出発とするが、やってるうちに真似ではつまらなくなり、人の個性や独自性が出てくる。読書も同様に、書いてある文字を暗記するために読書はしないし、自分の頭で考えながら読んでいけば、ニーチェやカントなどの哲学書を読む際において自分なりの思考が加わるなら、それを受け売りといわない。

受験学力とは機械的な暗記のことをいい、教科書を丸暗記するどこが学力、どこが秀才なのかと思ってしまう。早くから受験戦争に参入する子は、学童期から多くの物を覚えることに時間を費やす。こうしたバカげた受験体制は、国と受験産業との癒着と感じていた。本来教育とは自らの思考を育むためで、それでは過去問データを売りにする受験産業は無用の長物となる。

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欧米に学習塾がないのは教科書の丸暗記力を無意味と見るからで、日本人の読書離れ実態は考えなくてもいい文化に移行する過程なのか?暗記重視の教育体系は国家的な無策である。ノーベル賞受賞の野依良治博士の提言もあったが、ここ数十年来の日本はバカな国民を作ってきたのだろうか。向学心からでなくお金持ちになりたいから東大に行く時代とは野依良治博士。

企業の人材採用プロセスはコストであり、膨大な数のエントリーシートを短時間でさばくことを考えると、学歴を一つの判断基準にするのもやむを得ない。100人のお見合い相手から膨大な写真の枚数や履歴書が送られて来た娘さんのことを考えてみれば分かり易いだろう。企業もお見合いも実際に会って、相手の人物像や人間形成のバックボーンなどを確かめる。

学歴があるから仕事が出来るとは限らない、学歴が無いから仕事が出来ないとは限らないが、難関大学受験を突破しているということは、複雑な事象の理解力、記憶力、努力をする力などが一定水準以上だという一つの証明にはなるだろうが、こうした曖昧な判断以外に仕事のできる人間を峻別できる指標はなかなかない。結婚相手も同様に人の判断の難しさである。

「美人であること、イケメンであること=よい人」に思われがちなのはなぜだろう。人間が、「美」に執着するからではないか。美しいヴィーナスを描く画家が悪魔と思って描くわけがない。古典的ギリシャにおけるヴィーナスというのは、悪魔ではなく神々の一人、人間的な神なのだ。もし、悪魔を美しく凛々しく描ける画家がいるなら、彼の秘された才能には驚嘆するしかない。

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有名大学出身者は仕事ができるであろういい人材、美人やイケメンはやさしくていい人、敬虔なる信仰者は人間的にも素晴らしい、禅の苦行を経て悟りを得た人も同様なりと、これらは一つの判断である。そこで思考を止めるのは、それ以上の疑義を持つ必要がないからで、それを結論とする。無神論者が決して神を信じないのではなく、信じるに値する根拠を求めるから疑っている。

「信じたいがゆえに疑う」のは、妄信に比べて思考の継続であろう。神などいないと思考を止める人もいるが、思考をどこで切るかは人それぞれだ。親鸞の偉大性は、“人間の計算し得る限りの救済概念をことごとく破壊した”点にある。宗教による、「救い」を妄想としても、その反対概念としての、「救い無し」ということではない。はたして、「信仰とは何なのか…?」

親鸞は90年の生涯で幾度もその回答を求められたという。が、正しい答えは不可能と痛感した。人間の言説はいかなる言葉においても曖昧である。宗教という言葉さえ消えたところにこそ真の宗教が発生するのだろうか。こんにち存在する幾多の宗派が、もしもこのまま滅びていくならそれも差し支えないこと。すべては言葉と同様に手垢にまみれすぎてしまっている。

「救い」や「悟り」などありえない場所でのみ信仰が実証される。「救われた」と思い込む、「悟った」と思い込むことは出来る。それで、「幸福」ならそう思い込むは自由だが、このとき人間は思考が閉塞状態に陥っているのでは?「救い」を説かぬ宗教はないが、自己の救済的打算を押しやったところに信仰の本質をみるなら、「救い」は宗教のまやかしとなろう。

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