人を信じることはある場合に正しく、ある場合に正しくない。これが判断であるが、その判断が正しいか正しくないかが難しい。ある女がいた。女には彼氏がいた。ところが彼氏がどうにも怪しいと友達に告げられた。別の彼女の存在である。友人はそれを目撃、彼女に伝えた。彼女は友人にこういった。「わたし彼氏を信じるから…」。自分はその場にいた。
「友達が証拠を提示しているのになぜ信じるか?」。それに対して彼女はこう答えた。「だって、信じる方が楽だもん」。「信じる方が楽…」ってそんなことってあるのか?自分にまったくない考えに驚く。「信じるのが楽」を言い換えると、「楽をしたいから信じる」となる。ますます分からない。そんなことがあっていいものか?それって思考停止ってことではないのか?
なぜ疑いつづけない?思考とはそういうものではないのか?なぜ停止する。そんなに楽をしたいのか?『十二人の怒れる男』のなかで、「面倒くさいから無罪でいいよ」といった陪審員に、「人の命がかかっているのに、その言い方は何だ!」と怒りを露わにして他人に立ち入っていく。「無罪に投じるなら、無罪を確信してからにしろ。自分が正しいと思うことを貫け」。
日本人ならここまで立ち入らない。なぜなら、「何を偉そうに正義感ぶってんだ!」と詰られる。一人の少年の命がかかっていることへの真剣さである。真剣さというのは何より尊いものだが、「真面目くさって何だい!」と返されるのを怖れ、だから他人に立ち入らない。「真面目くさってじゃない。真面目にやることだろ?お前は何をバカなことをいうのか!」との怒りが沸く。
だから自分も同じようにいう。不真面目な人間を怖れないからか、「信じるのが楽だから」の言葉にはどこか不真面目さを感じた。陪審員と違って他人を審理するわけではない彼女自身の生き方の問題だが、若さは他人を許せない。これを、「孤独な革命的エネルギー」とでもいうのだろうか。自分の信じる価値観を他人に押し付ける傲慢は未成人間の特徴なのだろう。
しかし、友人関係というのは切磋琢磨の関係である。だから遠慮はしない。物怖じしない、若さには怖れはない。宗教家といわれる人がこれに似ている。キリストの言葉、仏陀の言葉、親鸞の言葉を遠慮なく口にする。なぜなら、絶対真理と信じているからである。絶対者が真理であるのは当然なのだと、それらを他人に流布することこそ世のため人のためという。
それが自分には気に入らない。宗教だからというではなく、絶対者による絶対真理というのが気に入らない。宗教を是としないのは、「絶対」を口にするからである。「絶対」を信じない自分は、「絶対者」を信じない。「一神教」を信じない。もしも絶対者が、「こういう考えもあるんですよ、どうですか?」と柔軟にいうなら信じてもいいが、キリスト教は命令ばかり。
「絶対者」の命令は当たり前、神が絶対であることに疑いはないということなのだろう。人は人だが、この世に唯一絶対はないと信じる自分が、唯一絶対神など信じるわけがない。聖書の言葉より、高村光太郎の『智恵子抄』を読むべくそこに愛の尊さを感じる。10代ころの自分は光太郎の『道程』が好きだったが、『智恵子抄』の世界には人と人の愛を感じさせられる。
自分のラブレターを詩にしただけでは?との批判もあるが、多くの人に愛される美しい調べである。佐藤春夫の「倦怠(アンニュイ)」も彼らしい風雅に滿つるが、光太郎の『智恵子抄』は壮大な愛の告白であり、信仰のような愛に思えてならない。人間の愛は無常であるが、彼の『智恵子抄』には正しき永遠が語られている。作中「あの頃」はこんな書き出しで始まる。
人を信じることは人を救う。
かなり不良であったわたくしを
智恵子は頭から信じてかかった。
いきなり内懐に飛びこまれて
わたしは自分の不良性を失った。
わたくし自身も知らない何ものかが
こんな自分の中にあることを知らされて
わたしはたじろいだ。
智恵子という女性は生来の無垢性を備えたひと。影響を受ける前から、智恵子風の女性は自分の理想であった。かくして自分の妻もこれまでに出会ったどの女性より無垢なものをもっていた。「人を信じることは人を救う」と冒頭の一句に憧れる。人を信じようとて疑わざるを得ない世に在って、純粋に「信ずる」ことの無垢性が光太郎を再生させている。
光太郎は「自分は生まれ変わった」と告げている。これが深い愛の作用である。のっけに「人を信じるか信じないかの判断が大事」と書いたが、無垢な言葉ではない。「愛」を念頭に考えたことではないが、無垢な愛について書く自信はない。『智恵子抄』の感動は、人間の愛は、人間の愛だけで成長しない。そこには何らかの「信」の世界が必要と教えている。