「君は幼少期に親から愛されていたと思う?」何人かに聞いたことがある。いろいろな答えが返ってきた。「姉(兄)はそうだけどわたしは厄介者だった」などは露骨な兄弟差別だが、一人っ子の自分に経験がない。同じ兄弟でありながら差別されるのはどんな気持ちなのか?永遠に分らぬ謎である。ただし、四人の子をもった自分は兄弟差別のないよう留意をした。
心理学に限らず著書とは文字や言葉の記述で、人を救うと救えるとかではなく、不安から抜け出したい人に向き合う。「あなたを救ってあげましょう」と口にする宗教はあるし、実際にいわれたこともある。「救う」という言葉自体が抽象的で、どのように受けとるかは各人の自由だが、発する側は心を救えると思っていっているのか、それともただの営業トークなのか?
あまりに無責任な言葉ではないのか?ある宗教に勧誘されて、「救ってなんかいりませんよ」といったことがある。相手はむかついたろうが、表情には出さず押し黙っていた。「せっかく救ってやろうというのに、何だこいつは」と思ったのかも知れない。現に相手は、「救ってあげます」と露骨にいった。こちらが頼みもしないのに勝手にいうので、なんとも安易な奴と感じた。
保険のセールスレディのいう、「あなたのために…」と同じことに思えた。レディに、「勧誘はあなたのためなのでは?」と返すと、「そんなことないです」とムキになるので、「ぼくのためというなら勧誘しないでくれるか?」というと、顔色が変わった。それを人に話すと、「そこまで言っては可哀相」という。そうだろうか?この程度でむかつくようで営業の仕事はすべきでなかろう。
顔色を変えない宗教者の方が一枚上手である。以前、エホバの信者がいっていた。「何をいわれようと門前払いされようと、笑顔は絶やさないようにします」。「すごいね、何で?」、「そのように指導されますから」。なるほど、それからすると保険会社の社員教育は甘い。エホバから講師を呼んだ方がいい。宗教者は自制心に長けているが、自己欺瞞とまではいえないだろう。
欺瞞トークを元手に商売に勤しむ人々。そんな彼ら相手にスカして楽しんでいるだけだ。人は自分の意図せぬことをいわれてどう反応するかは面白い。ドッキリカメラのようなもの。腹の中を見透かされても、平然とできるのが修練であり、営業従事者ならイロハの「イ」である。何事も感情露わにして成功した人はない。気持ちを抑え、心平穏にするは仕事外でも人間の修練か。
宗教信者は自己を放棄をして教団に尽くしているようにみえる。宗教とは自己放棄と思うがどうなのか?三大宗教いずれもそう見える。苦行を通じて悟りに至る仏教の教えも、結局のところ自己放棄ではないのかと。新たな自己を作るためとはいえ、自己を放棄することになる。新たな自分が創られたとしても自己放棄は間違いない。して新たな自分が新しき自己なのか。
哲学の宗教の違いについてこのように説明されている。「哲学は知の欲求であり、自ら哲学することなくして哲学たりえないが、宗教には知の欲求があるのか?」あるのは教義や教本の踏襲では?それらからしても、宗教は知的欲求の放棄であろう。「善い生活とは愛に力づけられ、知識によって導かれた生活のことである」。これはバートランド・ラッセルの言葉。
こういう事例がある。ある国で疫病が流行り、聖者たちは住人に「教会に集まって助かるための祈りを捧げよ」と命じた。その結果、急速に伝染し多くの人が命を落とした。愛はあっても知識のない不幸の実例だ。「そういう知識のない時代だからやむをえない」とはいってみても、「教会に集まって祈ろう」という愛が必要だったのかということになりはしないか?
果たしてそれは本当の愛といえるのか?ある人は「まちがった愛」というだろう。「知識のない時代」との言い訳を添えてだが、愛というまやかしがなければ伝染は防げたのは間違いのないことだ。2000年前に生まれた宗教が、科学万能といわれる今の時代にまで続いているのは奇蹟としか言いようがない。神の言葉はそれほどに人の心を打つということなのか。
長い宗教の歴史のなかでは様々なことがあったはずだが、間違いのないことは、過去2千年にわたって一神教信者が暴力によってあらゆる競争相手を排除をし、自らの立場を強めんことを繰り返してきた。そのご利益もあってか現代のグローバルな政治秩序は一神教の土台の上に築かれている。完全とはいえないにしろ、宗教が人類の統一に大きな役割を果たしている。
しかし、宗教に功があるなら罪もあって、『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏はこんな風に述べる。「神や天国のというフィクションを何千万人の人が信じれば大きな力を持ち、飢える者や貧困者に食料を配給し、病院を建設するなど善い力となる。それは神が善いといったからです。しかし、同じフィクションの中で互いが戦うといったような悪いことも引き起こす。
『天地創造』や『アダムとイヴ』の物語は、『ハリー・ポッター』のようなもので史実ではありません。エルサレムが聖地になるのも書物のそう書いてあるからで、ただの物語に過ぎません。神とはポケモンのようなもので、実際に街を歩いてもポケモンはみつからい。なぜならポケモンはいないからです。ポケモンはスマホのなかにだけいて、皆が奪い合いをしているのです」。
ハラリ氏は人間が神をポケモンのように奪い合っているという。が、彼が著書で何をいったところで、イスラムとキリストの争いがなくなることなどあり得ない。彼らは、「見よ!ここに神がいる。ここが神聖な場所だ!」と書いてある書物を信じているからでしょう。「思考が停止する」とは、イスラムやキリスト他の宗教全般についてもいえるのではと感じてしまう。