「思考が停止する人」は結構いる。思考が前に進まずどこかで停滞する。それで何かを解決しよう、改善しようなどをせず文句をいうだけで気を晴らす。どうしてそういう思考回路になるのかは不明だが、「思考停止する人」としかいいようがない。今回、上記のような考えに触れてそのことを強めたが、↑このような物言い(思考回路)には強い違和感をもった。
「幼少期に親からの愛情体験が足りない」という生育分析を発達心理学用語で「マザリング欠如」というが、一口に親子関係といっても、かつてと現在とでは親子関係を成立させる社会基盤が大きく変化している。兄弟が4人、5人は当たり前だった時代と昨今の核家族の違いや、一億総中流社会といわれる高度経済成長期後の親の子への関わり方は昔とまるで違う。
どちらにしても家庭環境が子どもの育成に大きく影響する。「宗教」も「心理学」体系であるが前者は観念的、後者は科学である。また宗教は依存、科学は思考である。信仰は救済というより神の是認を求めるが、神を失った現代人は激しく他者の是認を求めるのだろう。神は権威に人はひれ伏すが、現代人は親という権力の牢獄のなかで育った子もいるのだろう。
生育環境や親の問題から性格形成がなされ、心にしこりを残したままで成長した子どもは少なくない。問題の解決は原因を探ることだが、心の治療がなかなかはかどらないのは、性格という大きな問題が障害になるからだ。何事につけこのように反抗してしまう上記の人をみるに、「三つ子の魂百まで」というのは本当に怖ろしいことだという事実を教えてくれる。
心の病を抱えたある人の治療に際し、「あなたは幼児期に親の愛情を供与されないで育っている」という分析がなされたとする。「そうなのか、確かに思い当たるふしはある」と素直に従えば、今後はどう克服していくかということになるが、「幼児期に親の愛情が足りなかったのがどうだっていうのか?そんな言葉で人を救えると思っているのか?」と、これが性格。
今回の事例のような科学的な心の治療を前に、「言葉で人が救えるのか?」という人につける薬があるのだろうか?先ずは信じることが先決だろう。「神を信じなさい。さすればあなたは救われます」といわれて、「神の言葉で人が救えるのか?」と思う自分は、これも形成された性格である。神を信じなければならない理由はないと同様、科学を信じる義務はない。
スティーブ・ジョブズは死ななくて済んだという。「彼は膵臓がんの中でも完治可能な神経内分泌腫瘍(NET)。早期手術で大体の人は助かるのに、何故9ヶ月も受けなかった?」。ジョブズの死後、ハーバード大医学部研究員のラムジー・アムリが疑問を投げかけた。これに対し、ジョブズ自伝本著者ウォルター・アイザックソンがCBSのインタビューで疑問に答えた。
食餌療法、スピリチュアリスト、マクロバイオティック(桜沢如一による陰陽論を交えた食事法思想)、ハリ治療・ハーブ治療、呪術思考。彼が外科手術をはじめとする西洋医学治療を拒んだ背景には、禅思想へのこだわりや徹底した「菜食主義(ベジタリアン)」にあったとされている。彼は若い時から牛や豚など、血が滴る系の肉は摂取してこなかった。
牛や豚の肉は摂取をしないでいると、体内に病気を治そうと戦ってくれる武器や防具が全く無い状態となる。その時には、仮にいざ肉を食べようとしても肉を消火吸収して糧とする力は無い。元気で健康な時に、いかに肉類など、消化吸収にエネルギーがかかるものを、地道に蓄積しているかが、病気にあかかってしまった後、復活できるかどうかの明暗を分ける。
菜食主義を健康的と信じる人。肉食が身体によいと信じる人。どちらも一理ある。宗教を信じるも信じないも同様だ。ジョブズを霊的な力で治癒を奨めた人。ジョブズの妻も彼の考えに理解を示しがらも、西洋医学の必要性を以下のように奨めたという。「ううん違うでしょ、体は魂に仕えるためにあるものよ、果物・野菜もいいけど手術は受けなきゃだめ」。
何かを信じて生きて行く人間は本能のみで生きる動物とは違う。生きることへの喜びと勇気を与える言葉は、それを使う人にも、使われる人にも、大きな幸福を感じさせてくれるのだろう。プラトンは、「愛とは美における生産だ」といったが、美とは人の心を惹きつけるもの。我々は、心をひきつけられる思想や感情の持ち主に出逢う時、愛を感じることになろう。
そしてその思想や感情を我がものとし、新しい自分に生まれ変わろうとする。それが聖書であったり、賢人の書であったりする。山に登る目的は同じでも登山口はあちこちにある。それぞれが自らの生を生きればいいのであって、これだけの人間が存在するのだ。人にあれこれ言うのはいいが、「妄言妄聴」とは、勝手にいうから、聞く聞かぬは勝手にしろである。
語源は、「根拠のないいい加減なことを言ったり、相手の話を真面目に聞かないこと」。「妄言」は根拠のないでたらめな発言。「妄聴」はいい加減に話を聞く。とかく人はそういうもの。それが転じて、「自分は勝手にいうので、おしつけるつもりはない。聞こうが聞くまいが自由」と使われる。大事なのは相手を傷つけない強さ、傷つくことのない己の強さ。
相手をさげすむ者、自らをさげすまれないよう必死でもがく者。さげすむ者がいるなら防衛も大事。日本人がいかに世間を怖れているかは、あの狂乱的な受験勉強をみれば分かろう。なぜにバカげた教育ママが出てくるかも分かろう。彼女たちはどんなに理屈が分かっていても同じ種族になるだろう。「人間は理屈で生きるものではない」に同意せざるを得ない。