「受験に恋愛はダメ」と息子に言い渡した母親がいた。そんな母親に文句も言わずに従い、東大に入学した息子を最も喜んだのは母親だろう。受験に何が必要で何が無用かを区分けした母親は、自分の考えが正しかったことを息子たちが証明してくれたようなもの。『もういちど生きなおそう』の80ページ、「いい子になんかなろうとするな」で加藤は以下のように述べている。
「受験勉強中にある異性が好きになったと悩み苦しむのはいい。(中略) が、受験期には何もかえりみず受験勉強に没頭するのが正常であるかのごときはおそるべき錯覚である。(中略) 自分は正常ではないのだ、皆は一生懸命勉強しているのに自分一人はあらぬことで悩んでいる。親に相談しても、「今は勉強するとき、勉強しなければ将来困ります」と叱られるに決まっている。
加藤にいわせると彼らは自分が、「親の望む通りの規格品」になっていないことを悩み、「親の期待にこたえられない」ことの罪悪感に苦しむという。自分の生き方を親に委ね、親の望む成功こそが正しいと信じ、思い込んでいる。「正しいこと」と、「正しいと思い込む」のは違うが何を正しいとすればいいのか。「努力したが結果が出ない」のは正しいことだったのか?
欧米の子どもは神からの捧げものである。よって親の所有物と見ない。だから子育てにおける、「何が正しい」かは、「自分の将来は自己決定する」を正しいとする。自分も同じ考えだが日本社会では、「親の指示に従うのが正しい」とするが、これは親による子ども支配の考え方。「子どもは親の所有物」という考え方を信奉する以上、親に従うのが正しいことになる。
自分にそういう考えがない理由は、意識して取り払ったからで、子どもに正しいことは自分のパンツを自分で履くこと、自分で脱ぐこと。加藤も同様の考えで、「自己を失った者にはすべてが遠い」とする。我が子を特急列車に乗せたい親は多い。そういう親の近道とは、安易であるがゆえに人間の本質に向き合うと遠き道のりとなるが、親はそこまで考えてはいない。
“性格は簡単に変えられるものではない”との観点から遠回りとし、自己を失った者はいつしか自己の分裂に苦しむことになる。親は表層的見栄えの良い子どもを作ろうとするから、大事なことは外面でしかない。しかし、人間の悩みの本質は内面であり苦しみは大人になっても続く。「親の役割に加担する子どもは、結果的には遠い回り道をする」と加藤は指摘する。
ここに二人の人間がいる。一人は東大生。一人は聞いたこともない名の大学生。どちらが優秀であるかは一目だが、それを一目とする眼に誰も疑うこともしない、抗うこともない。金持ちと乞食とどちらに生まれたいと聞けば誰もが物質的に恵まれた前者を選ぶが、超無名大大学生であれ乞食であれ、立派で誠実な人はいるが、周囲が外観だけで判断すれば彼らに陽の目は当たらない。
自分はかつて、ヒビとアカギレでガサガサで腫れあがった手の女性に想いを寄せたことがある。彼女のその手をみたとき、働き者としての彼女に心が熱くなる。彼女はその手を必死で自分の視線から隠そうとし、そのことが一掃女性らしさを醸した。単にニベアのない時代だったかもしれないが、(隠さなくてもいい。ぼくは君のその手が好きだから…)と心で彼女に呼びかけた。
上辺より本質が大事と思うようになったのは、少なからず五賢人の書籍の影響もある。幸福には様々な要因や概念があるが、異性を慕う気持ちも幸福である。勿論、慕われるのも幸福には違いないが、受動性と能動性の比較についていえば、能動性の方がハッキリとして分かり易い。自分が相手を想う心というのは、相手から想われているであろうことより判然としている。
ヒビとアカギレにまみれた彼女の手に恋したのは、そこに意味を見たからである。昼間はレコード店店員だった彼女は、家に帰れば家事労働が待っている。そうしたことを思うと彼女の人としての魅力が増すのだった。「そのことに意味を感じるなら、人はどんな苦しみにも耐えられる」という名言があるが、美しくないものでもそのことに意味を見出せば美しく見える。
あらゆる意味の理解は考えることで可能となる。何も考えなければ、ヒビとアカギレでむくんだ手は汚いものでしかないが、自分はそこに意味を見た。あらためていうまでもないが、表層的な美と思慕に感じる美はまったく別である。「人間は明らかに考えるために造られている。それが彼の全品位、全価値である」と、パスカルがいうようなそんな人間でありたいものだ。
『もういちど生きなおそう』の最後、「人間は理屈で生きるものではない」のなかで加藤は、「人生は証明できるものではない」という。人間の意識下にあるものが善でも悪でもない非合理なものである以上、人生は理屈で割り切れない。やってることが、「あっているか」、「まちがっているか」は、その人がそれをやっている時に判断するしかない。なるほど…これは至言である。