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五賢人 加藤諦三 ⑤

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   人はそれぞれ…。無難に生きるもいい、存在感を求めるもいい。無理せず自分に合った生き方を…


「毒は薬に、薬は毒になる」という言葉を思い起こす。差し障りのないことしか言わぬ人を、「毒にも薬にもならない人」といい、これは可もなし、不可もなしということだ。加藤に毒を感じる人もいれば、薬に思う人もいるからこそ意味がある。フロイトの精神分析理論を研究したと思われる加藤の著作や言葉から伺える顕著な特徴は、現実から逃避することなく向かっていくよう奨励する。

人間の成長段階における自己形成が未熟な時期にあっては、現実の苦痛に正面から向き合うことができない。そのために自己欺瞞的な言い訳や、都合のよい解釈に逃げ、現実から目を逸らすことで自我を守ろうとの防衛本能が働く。これを繰り返すうちに欺瞞的な思考パターン回路が固定化したまま成長し、大人になってからも現実を正面から受け止めることが出来なくなってしまうという。

これを心理学用語で、「現実喪失的解釈の脅迫的反復」というが、有名なのはイソップ童話の「酸っぱい葡萄」がこのメカニズムをあらわしている。つまり、自分の行動を正当化するための不合理な言い訳をすることで、自分にとって不都合な事実を覆い隠してしまおうとする。このような人間の心理のあり方が無意識に「合理化」されているのを、自己認識できるはずがないのだ。

加藤はいろいろな具体例を挙げてこのような事象を説明してくれる。ハナっから否定するより、「なるほど、そういうものなのか!」と立ち止まり、我に帰って思考することで見えない自分に気づかされる。「人間は何事も自身に都合よく合理的に解釈してしまうものだ」あるいは、「人間は欲で自分勝手だ」というようなこと知っていると知らぬとでは、成長する方向がまるで変ってくる。

       過去のこと、若かれし時代のこと、すべてが笑い話にできないのなら、それは悲劇である


ここにも書いたが、中学一年の時の級友の何気ない言葉から、自分がどうにも鼻もちならない人間であるのを知った。家に帰って過去の自分のいろいろな場面が目まぐるしく思い出され、「穴があったら入りたい」ほどの羞恥が過る。クラス一頭の悪い級友の言葉は嫌味というより正直で、ショックとか傷つくというより、有り難い言葉と受け止められたことがよかった。

もしあの時に彼を見下げたり、バカにすることで自我を守ったなら、別の自分になっていただろう。あのまま生きる自分を考えただけでゾッとする。それくらいに嫌な人間だった。若さは可能性に満ちているといったが、そのためには人間生成が正しく行われていなければならない。人間はいつかどこかで、「生まれ変わる」ことが根本条件であり、それを成長と定義する。

人間が母の胎内から生まれただけでは未だ人間とはならず、一生のうちに幾度か生まれ変わらなければならない。加藤に『もういちど生きなおそう』という著書がある。同著の索引を以下提示するとこうだ。「唯一絶対?そんなものがどこにある」、「俺で生まれて俺で死ぬ」、「世界にたった一つ、かけがえのないこの人生」、「もっと人間らしい人間関係がほしい」

「『お前でなければ』といわれる人間になるのだ」、「思いっきりやりたいことをやってみろ」、「『いい子』になんかなろうとするな」、「人に好かれるための近道などあるはずがない」、「陽気にやろう、馬鹿な真似」、「俺はやるべきことをやる」、「自分で自分をあきらめるな」、「人間は理屈で生きるものではない」。中でもユニークなのが、「陽気にやろう、馬鹿な真似」である。

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 「批判するために読書をするな、妄信するために読書をするな、ただ思い考えるために読書せよ」 ベーコン


加藤は馬鹿をやる必要性をこのようにいう。「人間の意識は非合理なもの。一言でいえば馬鹿なものだから、ひたすら真面目に生きるより馬鹿真似をすることによって意識下の欲求が満たされる。これは青年だけにいえることか、そうでないかは知らない」。この国には、「いい年こいて馬鹿をやるな」という言葉がある。欧米の個人主義にはない無言で絶対的な拘束力がある。

心理学用語で「同調圧力」という。何が馬鹿な真似かは分からぬが、どれもこれもが人の判断だ。ある人から見れば馬鹿な真似だが、別のある人からみれば、「それのどこが馬鹿なんか?」となろう。したがって、「いちいち他人の視線を気にしてどうする?」となるが、気になる人もいる。抑圧を発散できる人、それができないままにため込む人。こうした性格の差は実は大きい

自身の不真面目さをおおらかに話す人も、不真面目さを隠そうとする人もいる。どちらも同じ人間で、その違いがどうあらわれるかは、いろいろな事件から知ることにもなる。どうであっても人間は最後に自分が責任を取らねばならない。それが罪に対する罰であり、罰を受けるほどの馬鹿をやるも責任を取る気ならそれも自由。ただし、人を殺した責任はとりようがない。

無期懲役であれ死刑であれ、人を殺した責任をとることなどできない。「加藤諦三って言葉だけで人を救えると思ってないですか?」などの批判者のどこに向上心をみることができよう。上記した『もういちど生きなおそう』は以下言葉で書き始められている。「我々は『あなたを救ってあげる』などというような、おしつけがましい宗教によって救われるのだろうか?」

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