他人からの押し付けを好まぬ加藤は、だからか押し付けをやらない。「自分は受験は嫌でやりたくない」と思っても、親がそれを強要し、受験回避を許さない場合にどうするか?などと世の中はこうした矛盾こそが現実であるとし、加藤なりに考えたアドバイスをする。通り一遍の答えなら誰でもいえるし書きもするが、こうした板挟み状態での“選択の最善”は難しい。
世の矛盾はあれども、矛盾を解決できないものと放置していたのでは、哲学者や賢人・賢者らの存在価値はない。加藤のスタンスは、個々の家庭の問題は直接人生相談でもやらない限りああだのこうだのは言えない。それが分かったが故に加藤は文字による無責任な答えを出すことなく、人生相談として直に様々な個別の情報と照らし合いながら、ともに最善を考える。
加藤のいうもっとも現実的で正しい方法がこれだ。観念を排除し病むもの、悩めるものに真摯に向き合った人こそ加藤諦三である。的確で正しい状況判断を行うためには、もたらされる多くの情報や状況の把握が必要だからであるが、人の生き方の基本として、したくないことはするな、できないことはできない、分からぬことは分からぬなどが、間違いとはいえない。
昭和も遠くなりにけりの加藤諦三は昭和13年生まれの81歳。日本人男子の平均寿命辺りにいる。女性は87.26歳というのは凄いことだが、昭和4年の我が母も今月12日で90歳。子どもは親の誕生日を忘れないものなのだろう。父の命日を忘れることがあっても誕生日だけは忘れない。加藤諦三が自分にとって賢人であったことで、多少なりとそのご利益はあっただろう。
人が80歳、90歳まで生きている気分はどんなだろうか?同年代で他界した人間もいるわけだから、悪い気分であろうはずがなかろう。死は突然やってくるとはいえ、若い時期は寿命が湯水の如くにあると思うが、80歳、90歳にもなるとそうもいかない。たまに死について考えるが、死ぬという現象より、自分の死後はどうなるのかについて想像力を巡らせてみる。
自分が大事にしていたあれこれやのコレクションはどうなるのか?それらを気にする人は、「あれはこうして欲しい」などを書き残しておくことになる。自分はそれをするのか?おそらくしない。死ねば死んだで残されたものが考えればよかろう。「後のことを考えるのは死にゆくものの責任」。そういう考え方もあろうが、あれこれと指示しないのが無責任と思わない。
「ねばならない」は個々の範疇と思っている。そのうえで必要最低限のものを、自らの意志に添わせるにはどうすればよいかを考える。人にはしたいこともしたくないこともあろうし、だからといってしたくないことを徹底避けて生きれば、人間の生き方は偏執的なものとなろう。かくして加藤諦三は、人間のそういうところに立ちはだかってメスを入れている。
加藤自身の主観より普遍性を重視した物言いやアドバイスが特徴ゆえに貴重な意見となる。それでも別な人からみれば独断的偏見に思えるだろうし、人の感じ方ゆえに押し付けは禁物。話が前後するが、加藤が何かと話題になり始めたころ、噛みついたのが田原総一朗。雑誌の企画で加藤と対談を受けた田原は、そのときの事を『現代の眼』という雑誌に書いている。
月刊誌『現代の眼』は総会屋の木島力也がはじめた現代評論社の刊行誌で、学生運動が全盛の時代に一世を風靡した雑誌だった。木島は右翼的でスケールの大きい人物として定評があり、『現代の眼』は左翼雑誌で丸山実編集長以下の編集部全員が左翼であった。丸山は全共闘運動を全面的に支持し、「『現の眼』(げんのめ)は全共闘の機関誌」ともいわれた。
新左翼セクト激突の場でありながら、『現代の眼』は質の高いアカデミックな雑誌で、これを読まぬは学生にあらずとまでいわれ、大学教授、作家、評論家らにも認知されていた。「原稿料はいいから原稿を書かせてくれ」と大学教授が言ってくる(丸山編集長)ほどに反体制・反権力雑誌であるが、1976年2月号には鈴木則男と野村秋介の対談が載ったのは驚き。
反体制の新左翼雑誌に右翼の対談などあり得ない、編集部は大反対だったが、オーナーである木島の裁量で決まったという。1982年(昭和57年)の商法改正による総会屋規制のあおりから、『現代の眼』は1983年(昭和58年)5月号で廃刊となる。こうした雑誌ということで、「加藤諦三/すりぬけ論理の虚弁教祖」と題した田原のコラムは、“凡人の顔をした凡人”で始まる。
「加藤諦三をどう思う?」と田原はテレビや雑誌関係者41名に聞いたところ、加藤を嫌いといわなかったのは、作家の小中陽太郎と、女性アナウンサーの村上節子の2名だけだった。村上と田原は後にダブル不倫のあげく、田原の妻がガンで死去した後の1989年に結婚した。不倫当時は互いの家庭を壊さぬよう関係を続けていたというが、不倫とはそういうものだ。