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考察 「死にたいなら一人で死ね」

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      情報は便利で、横着な時代になったが、何事も自らの目で視、自らの頭で考えるのが最善


「『一人で死ね』は絶対に言うべきではない呪いの言葉」と小島慶子が述べている。彼女の陳腐な理由を読めば反論するのもバカバカしいが、彼女はその理由を、「憎悪の言葉だから」などというが、小学生ならともかく出版社が物書きに雇った人間がこんな無責任なことを時代である。小島といえばヒステリーのイメージしかなく、論理型というより感情支配型。

「憎悪は憎悪を呼ぶ」と小島はいうが、他人へ憎悪むき出し発言するのを何度も見聞きしたことからいえば、彼女はいつもそう思いながら憎悪発言をする確信犯だろう。「憎悪」はともかく、「一人で死ね」が禁句というなら、説得力ある理由を述べてもらいたい。「一人で死ね」が刺激的な言葉というなら、「一人で死んでください。お願いします。」ではどうか?

「一人で死ね」は何ら憎悪発言でない。誰かを巻き添えにして死ぬ人間の、社会への憎悪こそ問題。死を望む者は一人で死ぬべきだが、問題はそれをいうなということらしい。人が誰かの前で、「死にたい」というのも迷惑なことだが、助けを求める合図であれ聞いた人は迷惑である。「死ぬのは止めろ」というしかないが、死にたい人間に何をいうのも無責任だ。

相手が本当に死ぬ気なら何をいったところで無理だろう。止めるのが人道的といっても、彼が本当に死ぬべきでない理由は彼の問題で他人に分からない。それでも人道的に止めるのが正しい事とされる。人道的に正しくとも彼にとって死が正しいかは別である。「どうしても死にたい。お前が止めてもどこかで死ぬよ」といってきかない人の死を止められない。

     髪の長い女性の自殺を見ながら思った事は、人が人生の最期を自らケリをつけた美しさである


がもし、「一人で死ぬべきかな?誰かを巻き添えにしたい気分だか…」などと問われたら何て答えるべきか?そんなことを問う者はいないが、おそらくはすべての人が、「一人で死ねよ」というだろう。死にたい者は一人で死ぬ。これは誰が考えても正しい。だから正しいことは躊躇わずにいうべき。小島慶子であってもそのようにいうだろう、それほどバカじゃない。

「憎悪の言葉だからいっちゃダメ」などといってる場合でもない。「死にゆく者は一人で死ぬべき」は地球上の正論なら、「一人で死ね」も間違いではない。神経症者への配慮というなら、「どうか一人で死んでください。罪のない人を巻き添えにしないでください」といえばよい。「一人で死ねは呪いの言葉」と小島はいうが、「一人で死にましょうね」と敬語でいってみよう。

どういう根拠があるかは知らんが、刺激を与えるというなら、「どうか一人で死んでください」と、遜ってお願いすれば、社会的弱者をいたわってることになろう。ダメダメばかりでなくこういう言い方もある。「絶対にいう言葉ではない」と気取った自論を押し付けたい者は、物事を分かっているようで、実際は小心者による自己束縛である。それほど他人に責任を持ちたい訳でもなかろう。

持論に執着し、それを社会にかざしていきがる者もいようが、物事に執着する人間には自由な発想がない。だから己の判断に誤謬はない、絶対に正しいと思い込む。余る知識と素養をもっていってるわけでもなかろうが、自己満足の放言まき散らす陳腐な人間とは言い過ぎか?「我侭」と「小心」という二つの自己束縛が人間に所有される以上、そうした推論も成り立つ。

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  成仏できずに此の世に未練をもって執着する者を幽霊という。ダメだろ?ちゃんとあの世に行かなきゃ…


したがって人間の判断を様々考察すれば、ある場合には極めて誇張され、別の場合には極めて委縮する現象を引き起こす。いいことではないが、そういう状態から脱却するのは自制しかなかろう。もしくは老子のいう、「無為」の境地。先日述べた「無為」とは、「無執着」のこと。物事を判断する際、その判断に執着しないことを心がける。これが自由の核心とも述べた。

自説を堅持し譲らぬことが美徳とされることはあるが、自説に絶えまぬ懐疑を怠らぬそんな自説は、対立の破壊を起こすことからして悪徳である。人が存在する以上対立は避けられない。それなら対立は認めるべきだが、強烈なる自説に酔う者は少なくない。昨今は、有名人だから芸能人だからと、つまらんことをいう者が増えたが、彼らはどれだけ他人に責任を持とうとするのか?

自分のような何の影響力もない俗人は、他人に無力であることを知っている。彼らは知名度もある公人としての影響力はある。小島も物書きとしての自身のそれを誇示したいのか、以下のようにいう。「今は無数のつぶやきがネット上で可視化されます。公共空間で可視化されたものは、たとえそれが匿名アカウントの憂さ晴らしであっても、数が多ければ世論に見えます。

それにテレビなどで発言する人物が同調すれば、ますます『社会の声』のように見えてしまう」。この発言も滑稽だ。都合のいい時にだけ自分を客観視しているところが女の浅知恵で、これを、「いい子ぶる」という。小島の邪推には以下の反論も的確である。こういう時代に必要なのは情報の選択である。数年前、世界が情報化時代に移行際の警告としていわれたことでもあった。

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