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Channel: 死ぬまで生きよう!
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しつこい橋下徹。君は何もいうな!

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元農水事務次官による息子殺しは6月1日に起きた。動機については週刊文春が以下報じている。事件当日、隣の小学校で運動会が行われていて、その音がうるさいと息子が荒れ、父親と口論になり刺し殺したという。息子は小学生をぶっ殺してやるなどと暴言を吐いたために、数日前に起きた岩崎隆一による川崎事件が脳裏をかすめ、息子が事件を起こしたら世間に迷惑がかかる。

そのように思って自らの手で息子を始末する決意をしたという。が、これら一切は死人に口無しという状況のなかでの独断的な供述にすぎない。犯罪者はどんなことでもいうが、無意識に自己正当化的なことをいうもの。犯罪の事実と供述は整合性があるようでも、紐解いていく過程で別の事由の存在が明らかになる。この事件について橋下はいち早く父親を擁護するコメントを出した。

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「自分も同じような状況なら熊沢容疑者と同じことをするだろう」との理由で、つまり自分もそうするだろうからとの理由で擁護した。自分もそうだから熊沢容疑者が正しいなどとはいってはないし、いえた義理でもなかろう。但し、正しいことを模索し、行為するのが良識人なら、橋下は自分は正しいことをしたといいたいのだ。間違ったことをあえてするとはいわなず同意もしないだろう。

しかし、熊澤容疑者が護身用にナイフを持っていたとか、何十か所もの刺し傷が息子にあった事実などから、供述とは別の要素が見えてくるにつれ、橋下はだんだんとトーンダウンをはじめた。だから今回も自己弁護も含めてこの件に拘り発信しているようだが、橋下には全く承服できない。彼は、「賛否はあるが、“一人で死んでほしい”と言うのも当然だと思う」と変節した。

彼の意見に承服しかねる理由はいくつかあるが、「もし僕の子どもが人様の子どもに危害を加えるということが“明らか”だというとき」、この言説である。「明らか」というのはどういう状況なのか?自分の子どもが人様の子どもに危害を加えることが、何をもって、「明らか」と判断し得るのか?人の判断には誤謬が多い。絶対に正しい判断であるという自信が的確な判断といえるのか?

仮にもし自分が、「明らか」と判断する理由があるとするなら、息子が即座に刃物を掴んで外に飛び出したとき。これは明らかに緊急的な判断が必要となる。突発的な判断もあれば、思考に思考を重ねた判断もある。「明らか」の根拠は可能性としての判断の可能性は否定できない。人は思い込みを的確な判断と自己認識をする。したがって、何が適切、何が軽率であるかの判断は難しい。

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にもかかわらず後だしじゃんけんでは、「息子は子どもを殺す可能性が非常に高かった」などと勝手なことをいえる。すべては殺人という取り返しのつかないあとだから、息子の気持ちすら勝手に曲げられる。ゆえに父親の行為の具体的な立証は非常に難しい。法治国家にあっては殺人という判断の正否が法廷で検証されるというではなく、あくまで行為の情状についてである。

人殺しを安易に正当化してはならない。正当防衛ならともかく、自分たちの命が狙われているとの怯えのなかで、川崎事件を引き合いにした義憤を口実に息子を殺した可能性は高いとみる。何が事実であるかは息子が死んでしまった以上、父親の供述のみを信じるのはダメだ。これはあらゆる殺人事件においても、加害者の動機を詳しく調べると同じこと。という都合のいい言い訳かも知れない。

なぜか今回の息子殺しには川崎事件や池袋事件のことがクローズアップされるが、息子の刺し傷の多さには違和感がある。そのどこが義憤?「自分が父親なら、最終手段として息子を殺す」と橋下はいうが殺すのは彼の自由。ただしテレビでいうな。人間は感情の動物ゆえに正義の刃を正しく行使はできないと考える。間違いを起こす以上、取り返しのつかないことは避けるべき。

それが死刑廃止論の理由の一つでもある。同じように、正当化できる殺人は存在ない。殺人を正当化できるものがあるのは、自分が自分の命を奪う自殺だけでは?すべての自殺には個人的な側面と社会的な側面があるが、個人的側面からみると自殺は当人の自由な行動となるが、社会的側面から見ればすべての自殺は他殺である。例えば殉死というのは、明らかに他殺的要素が強い。

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三島由紀夫とともに命を絶った烈士森田必勝も25歳の若さであった。他にも宗教の教祖とともにする集団自殺の例もある。江戸時代、各大名の間で殉死者の多きことが自慢になったことがある。東北の勇伊達政宗の場合、正宗に対する殉死者15人、その殉死者に対する殉死が5人、あわせて20人の殉死者がでた。今回の父親による息子殺人を、「よほどのことと理解する」という人は多い。

そういう人たちは殺される側の心情に立って考えたことがあるのか?どれだけのことをやったなら、「自分は親に殺されても仕方ないな」といえる事由をもっているのか?殺す側の論理はいっちょ前にいうが、殺される側の論理が果たして明晰に説明できるのか?せいぜい、「他人子どもを殺すような子なら親が殺して然り」というのはいいが、どういう根拠でそれが明白なのか。

橋下は、「自分の子どもが他人の子どもを殺すのが明らかな場合」と、この後に及んでしつこく絡むが、息子を殺すことが正当化できる「明らか」とは何かを説明すべきである。勝手な憶測で論理を組み立て、罪を犯していない者を殺すことが許されていい筈がなかろう。それを「明らかな」という言葉だけで正当化するのは止めろ。私情が絡めば人間は判断を誤りやすいのを知るなら…

息子が包丁を手に、「子どもを殺ってくる」と飛び出したのを追っかけて息子を刺し殺したというなら、父もそれなりの評価は得られようが、「人様に危害を加えることはあってはならない」は起こっていないこと。勝手に罪を着せられ殺された息子をなぜ悼まない?影響力のある人物は、つまらん憶測をいうためにテレビに出るな。「タラ」が好きなら北海道で食って来いよ!

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繰り返すが人間は誤るもの。人間の判断力には私情が大きく絡むもの。なぜに起こっていないことの不安要素ばかり煽り、息子が殺された事実に言及しない?父親が殺人に慎重であるべきを責めない?息子を殺したことで確実に何かが解決したのか?「起るであろう無差別殺人を防止した」と思いたい者たちの自己満足なのか、起こってもいない犯罪を防止したと思いたい人間の精神を疑う。

昨日、広島で49歳の母親が21歳の娘を自宅で刺し殺し逮捕された。親の子殺し容認発言は事の遺憾にかかわらずすべきではないし、影響がなかったとはいえない。こんな子どもなら殺してもいいんだと短絡的に考える親が増える事もあり得る。橋下の口に戸板を建てられないなら、せめてワイドショー媒体が子殺しを肯定するような発言は一切取り上げるべきではない。

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