きわめて当たり前の哲学的な真理とは、「在るものは在る、無いものは無い」であろう。「我思う、故に我在り」といったデカルトはいったように、彼は100%「真」といい切れないものは「偽」とみなすとの徹底した懐疑主義の立場を取り、真実を見つけるためにすべてを疑ってかかった。人間の思考のなかで感覚的なものは、真実というより錯覚かも知れない。思考や理性は実か夢かも知れない。
が、「それらを疑っている私」が存在するということだけは、疑いようのない「真」であり、 自分を自分と思っているものすらも夢の人格であったとしても、それを夢かも知れないと疑う「私」だけは確実に存在する。これが「我思う、故に我在り」の意味である。人間は不完全な生き物で、不完全な存在者である。ならば、不完全な存在者である人間が本当の完全性を理解できるのだろうか?
人は「分からない」と口癖のようにいう。如何に天才的な頭脳をもった学者たちであっても、「分からない」ことだらけである。将棋の最強者である羽生善治をして、「将棋は分りません」といわしめたように、人間は分からないことがあるという状態(不完全性)は明晰・判明に理解できたとしても、すべてを完璧に分かるという状態(完全性)を明晰・判明に理解しているとは言い難いことになる。
つまり、自分が不完全な存在であると理解する人間にとって、完全性の概念を明晰・判明に理解していることはできないのではないか。即ち人間にとって、“完全な存在が実在すること”は証明できないことになる。人間が完全性であり絶対的真理としての神を求めたのである。したがってデカルトの、「我思う、故に我在り」は、不完全ではあるが、この世がまったくの無ではないことを論理的に証明した。
「私は今ここにいる。あなたもここにいる」というのは知覚で論理的証明でない。肉体も精神も「有」であるのは本当か? 「自分は確実にある目的をもって生きている」といえど、それは夢見心地の幻想かも知れない。しかし、その夢を見ている何者かは確実に存在するのは真実である。「在る」と「無い」について突き詰めて考察したのはパルメニデスである。
「在るものは在る、無いものは無い」という自明な前提から、存在を論理的限界まで考究したパルメニデスのいう真理とは、「形もない動きもない多数も多様性もない永遠不動の一者としてただ“在る”ということになる。我々が、「これは真理だ」、「それは偽でこちらが真だ」などといい合い、論説戦わせているその向こうで、本物の真理は音もなく形もなく深として、“在る”のみである。
そんな自らの“在り方”に満足しない何者かが、あれこれと講釈を垂れ、もっともらしいことを発しているとしたら、それこそが茶番であり、それに群がる人は滑稽な人たちということになろう。だから、「信者」、「信仰」、「信じる者」というのは、差し障りのないよい言葉である。「信じる者は救われる」はさらによき言葉である。救われなくても救われるという前提で信仰に入り、結果は後の事。
何事も結果は後のものであるがゆえにその過程において人は病む。病気にかかる前に人は病まず、かかってみて病む。結果が分かっていれば人は病まず、だから過程において病む。もしも、「真理」が、“永遠不動の一者”としての存在でしかないなら、一体われわれは何なのか?日々刻々と絶え間なく揺れ動き、やがては死んでゆくわれわれ、「死すべき者」の一人一人はどうなる?
パルメニデスはこれに対して、「ドクサ(doxa)の道」という答えを用意した。「ドクサ」とは「思惑」、「憶見」などと訳されるが、彼の用意した安全柵を打ち破り、生身一人の死すべき者として、永遠不動の一者たる、「存在」の前に踊りでるとどうなるのか?弾き飛ばされるのか潰されるのか、こちらの方が面白そうだ。単に生きることに何の不快もないが、不快と考える人が信仰に入る。
が、一切のことは結果通りとなる。信仰者も不信仰者も、すべては結果に導かれる。「存在」に反逆して自殺する者がいたとしても、単に死すべき者が己の運命に従った以上のことではなかろう。そこにはポツンと一個の死体があるだけ。「病む心・病める心」の果てが自殺という結論をもたらせたのであって、「自殺は人間の最後の自由」と…、そのことに疑いはない。
死ぬことは一人でできるが、生きることは一人では敵わない。ところが、一人で死なない人間が出てきたのは困ったことだ。何処に誰に原因があろうと、迷惑の限りを尽くして死んだ人間に罪を問う実質的な意味はない。罪は罰を伴ってこそ機能する。「一人で死ねといってはならない」と警告する者がいる。理由は、一人で死ねに対する反発を起こしかねないからという。
可能性はあろう。世の中に「絶対」はない。人を巻き添えに死んでそれで目的を果たしたなら、それも彼の死に様だ。我々はそういう思慮なき人間に、「死ぬなら勝手に一人で死ねよ、バカもん!」と、心で思えばよい。口に出し、文字にしたところで本人には聞こえない。「一人で死ねよ」の合唱連呼に刺激を受ける社会的弱者がいるなら、彼らの甘えを理解するしかなかろう。
ニーチェは弱者を、貧乏人や病人もしくは特定の個人、組織、団体、党派、職業、階級、人種、共同体、コミュニティなどの規定をしていない。彼のいう弱者とは、人間の質であり「精神の規定」である。したがって、肉体的な弱さや社会的弱さが直接人間としての弱さを意味するのではなく、精神が弱さに同意した時、人間は弱い人間、病的な人間になるのです。精神が弱さに同意というのが甘えである。
「なぜ甘えがよくないか?」はそれぞれ考えるべきといったが、賢者や学識者の文献書籍にはいろいろ指摘されており、われわれ凡人にない「甘え」の怖さを驚きをもって知ることになる。目にしたことはないが、「甘えはよくない」程度は、神の観念言葉と記されているのでは?ただ、実行する上においての具体的な知識や分析は、神より賢人・賢者の方が有用性として遥かに高い。