小津安二郎は『一人息子』の冒頭、芥川龍之介の箴言集である『侏儒の言葉』を置いている。芥川は序文にこう述べている。「『侏儒の言葉』は必しもわたしの思想を傳へるものではない。唯わたしの思想の變化を時々窺はせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すぢの蔓草(つるくさ)、――しかもその蔓草は幾すぢも蔓を伸ばしてゐるかも知れない」。
『侏儒の言葉』のなかで芥川は、「親は子供を養育するのに適しているかどうかは疑問である」とも書いているが、この言葉にはいろいろな意味が含まれているのが分かる。「悪を懲らしめる」というが、「懲らす」、「懲らしめる」という言葉は昨今あまり使われなくなった。「懲らされてこその教育」といい、これを言い換えれば、「甘やかさないことこそ教育」となろう。
「懲らす」とは、精神の上に大きな重荷を与えられた障害物を設けることで、読書でも芸事でも運動でもなんでも障害物とみれば、「懲らす」ことになる。一日のわずかな時間でもよいし、したくないことでも我が身のためと自己を厳格に規定し教育するなら、「懲らす」というのは大事なことだ。人間に限らず動物であれ、障害を乗り越えて生きていかねばならない。
そう考えるなら、陸上競技の「障害レース」や、運動会の「障害物競争」も教育の一貫となる。何事もスムーズにいかない方がよい。障害を乗り越えてこそ強くなるはずなのに、苦労(障害)を避けて通ろうとするは甘えであろう。“子どもを甘やかせて将来のためにならない”という自覚だけは持っていた。誰もが「甘え」を好み、自分で自分を甘やかせるが、甘えであるとの自覚がない。
自制しなければどんどん甘える。なぜ甘えがいけないか、各自が考えるしかない。人からいわれたこと、あてがわれたことに人間は反発する。だからこそ自制が大事なのだ。朝のジョギングを日課とする人は、他人からの強制でやれるものではない。自らの意志だから続けられるが、それでも続けられない人もいる。自分が自分に甘えるからで、それが嫌なら自分に文句をいうしかない。
自分は自分に文句をいうのが大好きだが、「人から文句をいわれるより…」という但し書きがつく。だから頻繁に自分を懲らしめる。外出から帰ると灯りが煌々とついているのに腹が立ち、何度となく自分を懲らしめた。それが功を奏してか最近それがなくなった。「懲らされてこその教育」である。こんな簡単なことができない自分を、自分以外の誰が懲らしめてくれよう。
自分を甘やかすことを恥じる心。自分を甘やかせる自分を情けなく思う気持ちが自分を懲らしめる。甘やかすだけでなく、責任あでもまぬかれんとする態度は、なんと卑怯であろうか。人間はズルく汚くどんなことでも他人のせいにできてしまう。自分を甘やかすとは楽をしたいからで、楽をしたことを得というより損をした気になるよいう自分を、人は変わっているという。
損を得といい得を損といえば変わっていると、物事の表層しか分からぬ人間もいよう。奥深いところに気づかぬ人に罪はない。ツイッターで噛みつくのはいつも決まった人。噛みつくのが好きなカメに罪がないように人にも罪はない。自己の自由を守る精神があればいいこと。若い時のような批判精神は薄れたが、若者は自己の自由を守るために厳しく批判精神を持てばいい。
自由とは明日を生きる心である。誰でもその日を楽しみたい、それは欲望である。だから娯楽は必要であり、今日を楽しむことは明日にもつながっていく。生きるというのはその連続でしかない。貧しさと厳しい労働のあいだからも、喜びや楽しさを創造しようとの意気込みこそが青年の活力である。自分は心は未だ青年だから、活力だけは若者に引けを取ってはいない。
活力は生きる力だから、活力があれば当然生きることが楽しくなる。一日の何と短きかなで過ごしている。「活力」のある人、「活力」のない人、確かにいるとは思うが、あれば幸せの「活力」である。お金を使うこともない。起きて出して食べて歩いて、将棋を指し研究もし、本を読んだり、ブログ書いたり、テレビは観ないがそれだけであっという間に日が落ちてしまう。
だからか、「病む心」には縁遠い。どうしたら病むのかも分からない。育てるものがあるとすれば人間愛か。人間への愛といってもニュアンスへの愛である。ニュアンスとは日本語化している言葉で、色合いとか微妙な意味合いのこと。つまり、ニュアンスに鈍感になると人を傷つけてしまいかねない。これでは人への愛ということにはならない。ニュアンスを高めるのは大事。
サルトルだったか、「善をなす場合には、いつも詫びながらしなければならない」といった。ようするに、「善」ほど人を傷つけるものはないとの意味だ。我々は「善」に無神経で無配慮だったりするが、「善」というまやかしの言葉になびいているからではないか。その意味で、細やかな感性を持った人間は、あえてぶっきらぼうな表現をとったりすることになる。
「善」を行うに際してもぶっきらぼうな言葉や態度を見せる。「善人気取り」などは究極の恥さらしとの意識。他人から称賛を得るためにやるのではなく、人の何かの役に立てばとのはにかみ的な控えめな行為こそが、「善」であろう。長く生きていると、自分の思う善が相手の善になるとは限らない。「押し付けの善」もあったりと、善は悪を行為するより難しい。
人間は社会の中出試されて生きている。今後異性と恋愛に堕ちることはないが、人への愛情は絶やさないでいれる。異性を恋した時期はなんだったのか?。恋に苦悩し病んだこともあったが、過ぎ去れば遠き想い出だ。失恋が人間にとって痛手となるのは、おそらく恋愛をただの恋愛として見ず、そこに人生の幸福を重ねるからではないか。そういう気持ちで若者は恋愛をする。