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喜びと苦しさの表裏…

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人はなぜ他人がよく見えるのだろうか。真面目に考えたことがある。出た結論は、「その人の苦しみはその人になってみなければ分からない」であった。「隣の芝生は青い」という。「他人の荷物は軽い」という。「他人の饅頭は大きい」と、子どものころに聞いたことがある。これらすべては言い得ている。兄弟二人のケーキを二等分したとき、相手の方が大きく見える。

こういう体験は誰にもあろう。吉田拓郎の『リンゴ』の詞はこうだ。“ひとつのリンゴを君が二つに切る ぼくの方が少し大きく切ってある そして二人で仲良くかじる”。この歌詞を始めて耳にしたときは、「できた女だ」と思ったが、“このリンゴは昨日二人で買ったもの ぼくの方がお金を出して お釣りは君がもらって”という次の詞には、こんなこともあるのかだった。


普通(正常)な神経の持ち主なら、「はい、お釣り」と渡すはずだが、これを100点とするなら、うっかりは80点。故意にいたっては0点。これが自分の考える人間観。人を知るために、こうした思いは誰にも自然と湧くはずだ。このようにしながら相手を知って行こうとするが、自分をどう知るかが実は問題である。人は人を観察しても自分を観察することはない。

人間関係の基本は相手を知り自分を知ることだろう。最近のツイッターブームに思う派、人が人の事ばかりをアレコレとあげつらっている。短文のツイッターのなせる技なのだろう。ブログならしっかりと自己批判もできるが、ツイッターはどこか攻撃的である。他人の事ばかり眺めて生きていると、黙っていられなくなるのだろうし、だから文句の限りでストレス発散か。

ツイッターは憂さ晴らしなのだろう。他人を攻撃することで他人と自分の差異化を図っている。言葉の汚い人間は他人への敬意がなく、そうすることで一掃差異化を強調する。つまらん人間の代表と自分には映る。こういうタイプとの交流は絶対に避けてきた。人と人は敬愛心が大事で、それは言葉や文章に端的に現れる。もっとも、高邁な自尊心を隠すために遜る人間もいる。

そういう所も見ていかねばならない。随分と謙虚な人だなと思ったところ、インチキだったこともあるが、それすら自分の眼力の無さである。「毀誉褒貶」という言葉がある。「毀誉」はどちらも、「ほめる」、「褒貶」はどちらも、「けなす」。人を褒めたり悪口をいったりが人の社会。善悪は別にそれで成り立っている。「自分は人の悪口をいわない」という人がいる。

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「いわない」は、「思わない」ではないが、「思ってもいわない」のは大事なこと。なぜ大事かは、「難しいことだから」が単純にして明快。思っていることを言葉にしないのがなぜ難しいか?それは人間が言葉の動物だからだ。若いことに遠慮はなかった。「青年の主張」ではないが、自己主張こそが若者であり、若い時分から人に嫌われたくない姑息な人間はダメだ。

理由の一つに、「(人から)嫌われる覚悟のある人には強さがある」。こんな二者択一を提起する。「嫌われてる人と好かれている人、どっちがより有利か」。これを考える前に、「有利」という言葉に注意がいる。「有利とは何か」を抜きに出す答えはタダの文字でしかない。同じように「得」という言葉。何に対して得なのかを抜きに損得勘定を考えても無意味であろう。

「善悪」もそうだ。思考というのは難しい。何を基準に判断するかで全く変わってくる。息子を殺した父に同情が集まっている。「この父親に同情できない人間は親の経験がない人」、「他人を殺すような息子と判断したなら、息子を殺すのが親の覚悟」などの意見が理解できない。息子は誰も殺してはいないのに、川崎の事件のようなことをやり兼ねないとの合唱連呼は何だ?

誰かに煽動された人間は思考が止まってしまうところは危険であり、息子が無差別殺人を行うとの前提で論理が組み立てられている。明らかな予断と偏見に満ちており、親が我が子を行動を的確に判断し得るのなどあり得ない。未知の事を的確に当てられる人間はエスパーである。つまり、「父親は先を見通せる超能力者なのだ!」とでも言いたいのだろうか。

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父親に同情などあり得ない。親に命を奪われた息子に同情する。一切が親の蒔いた種によっているからだ。偏見も含めていうなら、親が子を殺するのは責任回避である。「責任を取った」などは目糞ほども思わない。逆に、子が親を殺すのを自分は理解する。なぜなら、昔は子どもで今は親であるから、殺したい子どもの感情も、殺されて然りの親のことも理解できる。

がもし、自分が過去に親に殺されていたとする。これほど不幸な親をもった子どもはいないだろう。子どもは好んでその家庭に、その親の元に生まれてきたかったわけじゃないのだ。子どもには総合的に罪がなく、殺すなどは甚だしく重罪である。唯一許されるとすれば、子を殺した親が死ぬこと。それが親の責任であって、生きながらえながらの責任などは笑止。

人が人のせいにすれば気がまぎれるという。もしそうであるなら、罪のない人に罪をかぶせることにもなる。これで人間関係が上手く行くとも思えない。自分の罪がないと思うのは、自分のことを贔屓目にみるからで、人はまったくの利害を抜きに自分を正しくは見れない。そういう場合にあれこれ言わずに、自分に責任がある、自分に非があると思うのが懐の大きさだ。

「川崎事件のようなことをしでかすと思った」。何を思うのも勝手だが、「思い」は「思い」以外のなにものでない。事実ではなかろう。そんな老害の浅慮で命を奪われた彼は気の毒でしかない。「川崎事件のようなことをしでかすような子に育てた…」なら分かる。幼女誘拐殺人宮崎勤の父は息子の責任を取って自殺したが、そういう「責任」なら理解もする。

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不肖な息子に育てたあげく、命を奪って親の責任を取ったなどを到底理解できない。息子は刃物でめった刺しにされていたというではないか?これが親のやることか?めった刺しの意味は何だ?人が人を殺める際に半狂乱に立ち回るのは死にゆく人間を前にした恐怖である。世のために死んでくれと静かに胸を刺すに比べて、憎悪むき出しの慈悲なき行為である。

平手政秀はうつけの信長を諫めるために腹を切った。若者の未来と先行き短い我が皺腹を交換したのだろうが、信長はうつけをピタリと止めた。信長自身の甘えを見抜いた政秀の明晰さである。不肖の息子を殺める前に、思いを託した文を書き残しての諌死というなら立派な父と思うが、息子を殺めて自ら生きながらえようとの魂胆は、正しいの親の在り方と思えない。

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