Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

病む心・病める心

$
0
0
人間を大きく分けると、子ども、青年、大人、老年ということか。そのなかで青年期こそ時代の鏡である。時代を知るに際して、その時代の青年を見ることも有効な方法であろう。青年は鋭い時代の批判者であり、観察者でもある。サリンジャー(J.D.Salinger)の小説『ライ麦畑でつかまえて』が出版されたのが1951年だった。その後10年間に同著はアメリカ国内だけで150万部も売れたという。

『ライ麦畑でつかまえて』は世界的なベストセラーとなっただけでなく、現代青年の心理を掴んだ幾多のふさわしい表現からして文化史的にいっても注目に値する作品である。主人公のホールディンは17歳の青年である。感覚が鋭敏で大人の規則や習慣に偽善を感じ、価値を認めず、強い抵抗感を持ち続ける。彼にうおると大人たちがやっていることはくだらない誤魔化しにすぎない。

イメージ 1

ホールディンは心にもない事を澄まし顔でいえない正直者な性格ゆえか、神経症を患い、学校や社会からドロップアウトしていく様が主人公の目を通して描かれている。ホールディングの人物像は発達心理学者で精神分析家のE.Hエリクソンのいう「同一性拡散症候群」の典型象とされている。同一性拡散症候群とは、青年が社会に出てどのような道に進むかという自己決定ができない。

ばかりか青年としての役割や勤勉さを失い、現実的な時間の間隔も薄れることで確固とした自己意識を見失ってしまう。ジョン・レノンを殺害したマーク・チャップマンは、事件直後に現場から逃走もせず、警官が到着するまで現場で『ライ麦畑でつかまえて』を読んだりしていた。ホールディンもチャップマンも従来的見地からすれば、いわゆるアンチ・ヒーローということになる。

なぜジョン・レノンを殺す必要があるのかについてチャップマンは、「有名になりたかった」と動機を語っている。ポール・マッカートニーはチャップマンについて、「私は誰でも許せる性質だと思うが、こいつだけは許す理由が見つからない。こいつは正気を失って、取り返しのつかないことをした。そんな人間になぜ容赦の気持ちを恵んでやる必要があるのかわからない」と述べている。

亀井勝一郎は『青春論』(昭和37年)のなかで、「現実の奴隷になってはならない」と若者を説いている。我々は日常生活において、「現実的」という言葉を多用するが、「現実的」という名目で現実の奴隷になるのだけは避けたい。青春をどう生きるかを語れないが、青春をどう生きたかについての経験は語れる。「何か特別な事をしたのか?」、していない。特別な事をするのが青春と思っていない。

イメージ 2

青春期に何を成したかといえば「親離れ」である。これは目的というよりむしろ願望だった。これまでの養育者への依存から社会性を獲得して自立することを親離れという。別の言い方をすれば、養育者以外の他者のなかでやっていく自己を確立する。これが青年期ではないのか。親元がいいという人間、親から離れたいという人間がいる。「親元がいい」という人間が信じられなかった。

「親と一緒で何がいいのか?」と何人にも問うてみたが、答えは決まって、「便利」だの「安心」だのだった。「何が便利?」、「何が安心?」と聞かずとも大体の見当はついたが、川に洗濯に行くわけでもない、山に柴刈りに行くわけでもないのだから一人でいる不便さは何もなかった。人間はこの辺りから大きな差異となってくる。親の監視がきつい者が自由を望むのは当然のことだろう。

「未熟な人間は理想のために高貴な死を選ぶが、成熟した人間は理想のために卑小な生を選ぶ」。これは『ライ麦畑でつかまえて』のなかで教師がホールディンに与えた言葉。「高貴な死」、「卑小な生」を意味するものは何?おそらく未熟な人間はロマンチストで、成熟した人間はリアリストとの意味であろう。高貴な死など考えたこともないが、三島由紀夫が目指したものがそれか。

「高貴な生」は目指すものだが、「卑小な生」は目指すというより自然の成り行き。「高貴な死」も「高貴な生」も興味がない自分は、それが何なのかすらも知りたいと思わない。「高貴」は自分に似合わぬものと思っている。「病む心・病める心」については関心が高い。人間の心は社会や人間関係と密接につながっており、ちょっとのことで病み、病めるものだろう。

イメージ 3

人がその人生における様々な過程でどう病むかは、生育環境や社会環境によって差異がある。疾病は治そうといろいろ手立てをするが心の病の手立ては難しい。治す方法は、生物的・心理的・社会的に区分けされていろいろあるが、そのためには原因を見つけることだ。身体的要因、心理的要因、社会的要因などがいろいろ絡み合い、複雑に作用し合い、病める心となって抜け出せない。

治療が大変なら病まないにこしたことはないが、これが難しい。心の病とは無縁の自分はなぜに病まぬか分からない。だからどうして病むのかも分からないが、おそらく、「病む必要なんかなかろう?何を病む?」という態度で生きているからかも知れない。人間関係においてもつまん相手とわかったら相手を切る。無駄な付き合いはしない。45年前の恋人との再会もそうだった。

昔の恋人に偶然出会ったことの感動はあったし、これはもう合縁奇縁として生涯の友と続いていけばと願っていたが、自分に合わないと感じてスパっと切った。後はもう何事もなかったようでいれた。あまり物事に固執しない性格なのだろう。人は何かに固執するから悩んだり病んだりするのでは?見込み違いと感じたものに執着したり固執したりすることもなかいからアッサリ捨て去る潔さか。

そういえば、「あなたはなぜそんなに潔いの?」と幾度か問われた。潔い者に「なぜそうなのか?」と聞かれても、普通のことなので答えようがない。それができない人にとって潔さは良いことなのだろう。そこで思うことは、できない人はできないといわずやったらよい。できないことはとりあえずやってみる。するとその時点から、「できる自分」に変貌する。できるとできないは紙一重。

イメージ 4


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>