Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

「愛過病」と「愛欠病」= 親

$
0
0


考えてみるに、親が子どもを育てるということは、親にとっても喜びであり、また子どもにとっても幸せなことであるはずだ。だから、鳥や野生の動物も、親はイキイキと子どもを育て、子どもは親に育てられることでイキイキと成長する。動物園の檻のなかのパンダを見ても疑いのない事実である。ところが、人間の親子にはそうした動物にはない諸問題に悩まされる。

悩まされるのは親だけではなく、子どもすら親の事で苦悩をする。「何で親でこんなに苦しまなければならないのか」。「どうして他人の親はあんなにやさしいのか」。そういう疑問が湧きあがった時、親で苦しまなないためにはどうすればよいかを考えたのは当然である。誰でも苦しい時には、いかにその苦しみから逃れられるかを考えるだろう。自分にとっては親だった。

思考の末に出た結論は、「親を捨てる」ことだった。これ以外に親からの苦しみを逃れる方法は見つからなかった。というより、何度も何度も試してみたが、苦しまない方法を聞き入れてもらえなかった。その理由は簡単で、親は自分を苦しめようなどとこれっぽっちも思っていないのだ。だから、こうして欲しい、こうはして欲しくないといくらいっても効き目がなかった。

親とは母親である。母親が完璧に自分を支配下に置き、親の意のままに子どもを操ろうという魂胆だった。今なら、「何でそこまで」と思うが、されている時はそんな風に冷静に客観的になど眺められない。子どもから見た母親は悪魔の所業にしか見えなかった。小学低学年まではそれは怖いの一字だったが、自我が芽生えるころになると、自己防衛が働くようになる。

イメージ 1

すると、怖くても敵として抗おうとする。闘おうとする。誰にでも起こる反抗期というのは、自我の芽生えのなせる技である。人間の親だけが我が子をダメにしてしまうという、「悪魔の愛情を持つ動物」といわれるが、当時は、「愛情」などと感じるものはまったくなかった。しかし、あれほどのエネルギーをもって親に歯向かったのは、今に思えば自己愛だったかも知れない。

自分はこうしたい、ああしたい、それに協力してくれる親なら有難いが、すべてにおいて反対し、邪魔をする。恋路の邪魔をする親もいるとは聞くが、そこまで立ち入る親は、当時の自分から見ても正常な人間と思えなかった。封書の開封や廃棄すら、そういう行為は人間としてまともと思えなかった。当然ながら親として許容できるものではないが、問題はされたらどうするかである。

「するな」といっても止めない親には、されたらどうするかの報復しかないのだ。しかし、封書が開封され破棄されるなどを自分が把握することは普通はできない。ところが自分には父という味方がいた。父は母の行為を制止することはしなかったが、差出人の名前だけを耳打ちしてくれた。その事実を母に言い、自分は母のタンスの中の一切の衣類を外にまき散らした。

自分なりに考えた最も母親を困らせる方法である。母は和服を多く所有していたが、和紙にくるまれ畳まれた和服を外に放り投げるのは快感ではなく、悔しさの発露でしかなかったし、こんなことをさせない親であって欲しいとの切なる願いであった。母がその状況をどう感じたかは知らぬが、行為を咎めることができなかった母は、その点においては明晰な判断だった。

イメージ 2

もし、そうでなかったら、子は親を殺める以外に報復手段を見いだせなかったろう。我が子に葬られた親の多くはそこを受け容れられなかったことによる悲劇ではなかったか。子どもの怒りを受け容れられない親は危険である。怒りという心情をタカをくくってはならない。特に親は子どもの怒りの度合いを測る必要があると思っている。でなければ親子という線引きがなくなろう。

親だから我慢する。子どもの多くが経験することだが、我慢を超えれば親ではない。そこまでに至らぬ親をバカといい、傲慢というしかない。制裁を加えられて初めて分かるのだろうが、死んで分かることは何一つない。「バカは死んでやっと直る」ということか。便利な育児を好み、都合の良い育児を好む、これが文明社会だが、かつて子育ては力仕事といわれていた。

確かに、「手のかからぬ大人しい良い子」を望む親は多く、できるならそのように持っていく。ところが、文明社会はそういう現象の裏にある屈折した心理を現すに至るようになる。「良い子の悲劇」というのが心理学的にとり上げられ、体系化されていくことで、親の子ども教育も一筋縄ではいかなくなった。押さえつければいいという教育が時代遅れということになった。

学校教育などのあらゆる教育現場で、「抑え込む」が否定され、愛の鞭という教育手法も一掃される時代となった。「愛の鞭」は、「ただの鞭」どころか、心に傷をのこすものという事になった。親や学校の手におえない問題児を矯正することで人気を博した愛知県の、「戸塚ヨットスクール」のような体罰重視で鍛える教育が正しいなどと誰も思わない時代である。

イメージ 3

ディランや中島みゆきではないが、『時代は変わる』のは自然界の摂理である。これまで正しいとされてきたものが間違い、間違いとされてきたものが正しい、そこが人間の英知であり進歩であると誇りをもっていえるのではないか。ガミガミいい、殴り、傷つけ、挙句は殺害などの加害行為をもってしてまで人を教育せねばならぬのか、そこに目を配せることになった。

学校はどんな理由があっても行くべきところ。そこに行かない、馴染めないのは本人に問題があり、そこは指導して変えていかねばならない。一見、正論に見えるが、集団を受け付けない子どももいるというのは、新しい考えである。「男勝りの女は女として問題がある」、「女装を好み、女言葉を使う男は男じゃない」。これらも医学的見地から間違いであった。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles