今回発信されたツイートを読んで様々な事が頭に浮かぶが、彼はソーシャルワーカーという仕事柄、貧困者など社会的弱者や社会的に疎外されている人々と関係を構築し、様々な課題に取り組む以上このような発言をする。現象面だけにとらわれることなく、社会的弱者の背景や周囲にある問題に取り組み、関連機関や環境にも働きかけるなどがビジネスとして成立する昨今だ。
アメリカにおけるソーシャルワーカーは、州ごとの免許制度となっていて、取得には主に修士以上のソーシャルワーク学位が必要となる他、様々な要件が規定されている。地位も高く弁護士と同等の職業として市民権を得ている。日本においては国家資格として、「社会福祉士及び介護福祉士法」に基づく社会福祉士と、「精神保健福祉士法」に基づく精神保健福祉士が存在する。
スクール・ソーシャルワーカーは、主に学校からの依頼で生徒やその家庭支援を行うが、自治体ごとに教育委員会が採用するもので、必ずしも社会福祉士や精神保健福祉士が対応しているわけではない。生半可な知識や経験で真のワーカーとは言い難いが、それをいうならダメ教師の存在も同じことになろう。資格を持っていようが無能者はいるし、資格はなくても有能者はいる。
今回のツイートにはいろいろな問題が散見されるが、何より被害にあった子どもたちたその家族・親族に想いを寄せた言葉が皆無であったことではないか。ようするに、彼は自分のライフワーク(あるいはビジネス)のみに先走った感がある。加害者があれば被害者もいるが、私にとって被害者のことは頭にないという了見で言い訳なかろうが、彼はそのような人物に受け取れた。
いじめがあれば、「いじめは止めよう」というのが大衆である。それに対してソーシャルワーカーは、いじめ加害者の背後にある問題について語ればいいのであって、「本人の問題だけではなく、成育歴や社会環境の問題がある」のは当たり前のこと。それに取り組むのが仕事であり、「(いじめ加害者に)いじめは止めよう」などは控えてもらいたい」というバカはいない。
彼の論理は、「いじめを止めよう」というから余計にいじめが増幅すると聞こえる。だから、もう少し頭を使って丁寧に言葉を選んで発信してもらいたい。親に大事にされないで40歳、50歳に育った人間に、「社会はあなたを大事にしてる。決して見捨てない」というのがソーシャルワーカーの仕事ではないだろうが、そのような育ち方をした人間にどういう言葉がふさわしいのか?
大衆のいう、「関係ない人を巻き込むな」、「子どもを巻き込むな」は当たり前の意見だろう。「弱いものいじめなんかするな」というのと同じではないか。いじめは弱ったれが、自分以下の弱ったれを探して起こす。今回のような子どもを狙った無差別殺傷事件も、弱いものをターゲットにする。自分以下のものを自分が支配する快感ではないだろうか。家庭内のDVも同じ論理。
強いものに向かう、権力者に立ち向かうという気概のない脆弱人間が増えたのを実感する。「人は自分が大事にされなければ人を大事にできない」というのと、「人を傷つける」ことは何の関係もなかろう。アメリカにもあるこうした無差別テロのような事件に接して思うことは、「旅は道連れ」という言葉。そのあとに、「世は情け」と続くが母子心中にも腹が立つ。
なぜに道連れをするのか、多少の偏見も含めてあらゆる可能性から得た答えは、孤独への怖れである。E・H・フロムの「すべての犯罪は人間が孤独でいられないというところから起こる」という文言の影響もあるが、人間はすべてから分離されるほど恐怖はない。「旅は道連れ」はそうした要素もあると思うが、裏を返せば、人間が一人で生きて行こうとの姿勢はない。
むしろ、一人で生きて行かない事を人間の生き方としている。フロムのアンチテーゼとして、孤独を忌避しない生き方を成就させるべきと考える。孤独はいいものだ、素晴らしいものだ、人がものを考える時は孤独なとき以外あり得ない。だから、「孤独は最高の友」といわれるのだ。「人ごみ」に耐えることはあっても、「孤独に耐える」なんてことはあり得ない。
孤独な人間が決して無気力である筈がない。身体だけ動かせば活動ではなく、思考というのは人並み以上の精神活動を行っていることになる。我々は自らの感情に正直に生きることになれば、感情表現を抑圧された息苦しい空虚感はなくなろう。本当の自分を隠すことにエネルギーを使うほどバカバカしいことはない。ありのまま、あるがままの自分を社会のなかに織り込んでいく。
自分の中から湧き出る行動で自分を判断するのだ。自分の成長の度合いもそれで判断する。生きることに関心を失った人は生ける屍状態、もしくは自死を選ぶ。自分の経験によると、子どもの内面破壊をもたらす操作は親によってなされるが、そうした親の支配には断固反発すべきである。親の塾長で東大に入るより、自分自身を生きるために人は生まれたのだと。