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賢い人とは ⑤

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人間の「賢さ」について思考をすれば色々思い浮かぶが、場面、場面で機転の利く人間を「賢い」とするのは間違いなかろう。「きてん」を検索すると、「気転」と、「機転」があり、それぞれの意味は違っていた。「気転」とは自分以外の誰かに優しくすることを指す。優しくする際にも、他の誰かにこうしたほうがいいと言われてするのではなく、自らの意志で行動することが大事である。

例えば、電車で座席に座っている際、目の前にカップルがきたとする。開いた席が自分の両隣だった場合に片方に席をずらすのは気転を利かせたことになるが、これがもしカップルから、「どちらかに寄ってもらえますか?」と言われて動いた場合、気転が利いたと言わないだろう。自分の意志こそが気転である。それに対して、「機転」とは人が考え付かないような発想をすることである。

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「機転」というのは、他人に親切にするような気転と違って、誰にも所有される能力ではなかろう。したがって人の賢さとは、「機転」に属すもの。どちらもあっていいものだからできたら身につけたいものだ。子どものころ、近所のお好み焼き屋さんに、それはそれは気転の利くおばあちゃんがいた。単に子ども思いのやさしいおばあちゃんと思うが、だから気転が利くのだろう。

当時、普通のお好み焼きは確か30円だったと記憶するが、おばあちゃんは腹を空かしたこどもたちに5円のお好み焼きを作ってくれた。当時のこどもにとって10円は大金で親からもらうのはせいぜい5円。おばあちゃんの作る5円お好みはこんな感じだ。鉄板の上に水で溶いた小麦粉(当時はメリケン粉)をひいて、具はなにも入れずにただ焼くだけの今でいうクレープ。

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こどもたちはじっとそれを見つめながら、今か今かと出来上がるのを待つ。そして数分後、焼けたらお好みソースをぬってカツオの粉をふりかけ、二つ折りにたたんで新聞紙にくるんだら、おたふくソースのクレープのできあがり。元はこどもの空腹をしのぐ食べ物だった。おばあちゃんは夏には5円のかき氷も作ってくれた。量は少ないがちゃんと蜜もかかっていた。

みんなが貧乏だった時代、お好み焼き屋にしろ、駄菓子屋にしろ、決してお金儲けの商売というではなく、子どもたちのために存在するようなたまり場だった。地域社会は子ども達のためにあり、我々はそうした大人の御利益を受けて大きくなった。みなが温かな心をもった美しきよき時代だった。子どもは地域が育てたといって、決して過言ではなかろう。

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こうした大人のなかの子ども時代の記憶は、今なお自分の心に残っている。たくさんの子ども時代の記憶は忘れるものではないが、なぜかほとんど覚えていない大人たちもいる。昔話を忘れるような大人は、日常生活に追われてなのか、自身を顧みる機会が少ない人たちでは?大人の心の中には誰にも桃太郎や一寸法師、浦島太郎が生きているはずなのに、それすらなくした大人がいる。

人生の成功や失敗の過程というのは、そうした昔話の展開する筋と符合しているのは決して珍しくない。たとえば意志の弱き人は、浦島太郎の物語の如き乙姫の誘惑におぼれ、正義感の強き人は桃太郎のように、村人の財産を強奪する鬼を退治に出かけていく。男の子はこうした英雄・豪傑に憧れたものだ。欲にかられて生きる人は、「こぶとり爺さん」や「舌切雀」の話は警告となろう。

空想は子どもの遊びを豊かにし、空想力が大人の現実的な吟味能力と結びついたとき、社会のなかで自己を実現するための原動力となる。世知辛い世の中で生活にに追われた大人たちは子どもの空想力を失い、現実の適応に追われるばかり…。社会問題となった、「不登校児」においても、彼らの多くは、「学校に行きたいと思いながら行けない」子どもたちである。

かつては、「登校拒否児」といったが彼らは、「登校を拒否している」というより、「拒否させられている」のが実態である。我々の時代にもいじめや仲間外れは普通にあったが、「学校に行きたくない」、「登校を拒否させられる」ような陰湿さはなかった。さらにいうなら、親に甘やかされたような腑抜けた子どもはいなかったし、それぞれがそれなりの逞しさをもっていた。

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「賢さ」は人間にとっての大事なファクターであるが、「逞しさ」はそれに勝るものでは?子どもを弱くする方法など簡単なこと。何でもカンでも親が手を貸せばいい。逆に子どもを強く逞しくしようと思えば、あえて親が手を貸さない。昔の親が故意に子どもを放っておいたのではなく、忙しくてそんな暇がなかったからだ。今の親たちは暇もあってか多くの時間を子どもに費やす。

あくまで自分の考えだがこれらを、「賢い親」といわない。「賢い」にはいろいろあるように、「賢くない」にもいろいろある。今の子どもはその年代にもよるが、愛らしさを捨て不可解なものへと変貌している。近年の多くの親は、子どもの言動に戸惑いつつも、ひたすらその対処法にのみ憂身をやつしている。そうした要因は、想像力を育まない、「遊び」が主体ではと考える。

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