「賢さ」が何であるか、正直分からない。しかし、「賢く生きたい」と世の中での実践を頭に描いてみれば、どう生きるのが賢いのかが見えてくる。つまり、実践に即した賢さこそが生きる上での有用さではないか。ただ賢くなりたいからとやみくもに勉強するとか、読書をするとか、講演・講話を聴きに参じるとかというではなく、生きる上での様々な知恵が賢さであるのが分かる。
自分を知ることが賢い人だといった。いったはいいが、自分の何を知ればいいのだろうか?「自分を知る」ということをもう少し具体体に考えてみる。「自己を知る」ということは簡単ではないし、きわめて困難なこと。これは自分の経験でいっている。その理由として、人間は環境に大きく左右されるからだ。例えばちょっとばかり人から褒められたとする。そのことが自分を自惚れされることにもなる。
あるいは人から小さなことを非難されたとする。そのことで自己卑下をし、寝つきが悪くなったりする。いわれた言葉が頭をぐるぐる駆け巡ればそりゃあ眠れないだろう。若いからではない。いくつになっても、周囲の言葉によって心が揺れたり左右されたりの経験は誰にもあるだろう。つまり、自分は他人の言葉にかなり影響されやすい人間なのだと知る。いいか悪いかの前に「知る」ことになる。
他人から僅かばかりの賞賛を受けた昨日の自己と、僅かばかりの非難をされた今日の自己は明らかに違っている。が、どっちの自己も自分である。だから、自己を知るというのは困難だといった。一生かかっても本当の自己が何かを知り尽くせないかも知れない。なのに「自分を知る者が賢い人」といった。日々移り変わる自己をしるとはこういうことだ。褒められたらつけあがり、自惚れやすいのが自分。
非難されたら心が痛み、そのことが頭に充満して寝つきが悪い自分。そういう自分であるということを先ずは知る。そしてそのことが自分にとって負担になるかならないか、なれば何とせねばならない。ならないなら放っておいて大丈夫。このように、生きるということは不安定を生きることだということを知るのも広義の自己を知ることになろう。自分は世間に生きているなら、世間を知るのも自己を知ること。
人里離れた山奥に隠遁し、仙人のような暮らしをする時も、知るべく自己がある。人間は環境に左右されるのだから、さまざまな環境のなかの自分を知るのが自己を知ることになる。平たく言えば、あちこちにおいての自己を知るということだ。たくさんの自己をその場その場で正しく判断することだ。つまり、自己の対応力を知って、それでよい場合、よくない場合に、修正した自己を試みることになる。
試みるのが可能かどうかは分らぬが、その時その場の自己を知っていれば、対応は可能だろう。自己を知るだけでなく、相手のことも正しく洞察すれば孫氏のいう、百戦百勝も夢ではない。議論においても言い合いにおいても目指すは勝利であり、誰もがそれを目指している。負けたという記憶はない。つまり相手の虚を突くからで、将棋でいうところの、「相手の指手をすべて悪手にする」のが大事。
虚をつくとは、相手の考えにない事を突発的にいうことだ。相手にはその用意がないからうろたえる。そこが大事である。さらにこちらは、相手のいうこと一切は想定済みとなれば、対応も簡単だ。自慢することではないが、自分は相手の虚を突くのが得意である。なぜかといえば、それが好きだといってよかろう。だからか、テレビの「ドッキリカメラ」とかは見ていてたまらなく面白い。
仕掛けられた方は全員虚を突かれ、あられもない状態となる。これほど面白いものが他にあるだろうか?人間が虚を突かれること以上に人間の何が面白いのだ?と思っている。だから、他人の虚を突くのが大好きなのだ。「好きこそものの上手なれ」ということだろう。「君は頭いいね」といわれても、思ったことはない。評価というより、悔しさが言わせる言葉だと思っているし、評価なんかいらない。
自分は何事も楽しみたいだけだ。人が考えつかないことを考える人も頭のいい人、即ち賢い人だと思っている。だから自分もそうありたい。人が考えのつかないことをいろいろ考えていれば、訓練されて頭がよくなるのではないだろうか?何が起こるか分からない世に生きている以上、何があっても適切に対処するのも賢さではないか。神など信じない。信じてもいいが、神は我らを放っておいてくれたらいい。
もし神様がいたとし、我々の生涯全部の過程を明らかにしてくれたなら、我々は生きる興味を失うだろう。自分の壮年時代から老年時代や死に至るまでが、完全に予測できたなら、果たして我々はその人生を生きる必要があるとは思えない。問題集を買ってきて用意された解答マス目に埋めていくようなもので、誰もそれを勉強とはいわない。真の勉強とは答えを四苦八苦して考えること。
さらにいえば、人生には教科書に載っていないような問題が山積みされており、そうした答えのない問題に答えを出していくが、その場合に正しい答えを出しのが賢い人であろう。誰も知らない、誰にも分からない我々一人一人の生の可能性と、それらを空想することが我々を生かしている。したがって、生きることは不安を、不安定を生きるということになりはしないか。
明日が不安である。だから生きる。10年後が見えず読めず不安である。だから生きる価値があるのでは?あるいは、どんな大きな夢であれ、小さな夢であれ、生きるということはそうした夢を叶えていくことでもあるが、現実的に考えるなら、我々はその夢を破壊していくことにもなる。絶望することはない。それを試練とし、試練に耐える自己を愛すればいいのだ。
どんな人生でも我が人生。どんな自分でも我が自身。危機に決断し、成果に絶望することもある。「世の中、そんなに上手い事行くわけない」と、道理を知ることも賢い人である。自分の都合の良いことばかり考える人を賢いといわない。「凡庸な人は人間の間に相違を見出さない」という言葉があるが、美醜も、精神の大も小も、才能の有無も、生まれながらの貧富も、相違として存在する。