「あの人は賢い」、「彼は頭がいい」などの言い方がなされるが、それぞれの人のなかには「賢い」の基準があるのだろう。受験学力と地頭の良さとは区別されるが、一般的に地頭といわれるのは知識の多寡でなく、論理的思考力やコミュニケーション能力などをいうのは、科学的にもあきらかである。文章を書くにも論理的思考を磨くためと思えば苦にもならず、コミュニケーションに勤しむ人も同様だ。
しかし、賢い人間を目指すというのではなく、自分自身の卒の無さを磨きたいということなのだろう。前回、アランの記述を引用したが、彼のいう幸福感は、“弱いから強くすべきだ”いう考えからで生きることが基本にある。強いものは自然と強く生きれるが、そういう人ですら弱いから努力をした筈だ。自分も弱い自分を徹底的に嫌悪し、強くなりたい願いは今なお変わらず持ち続けている。
そういえばラッセルも彼の『幸福論』のなかで、「自分自身の自叙伝を示せ」と述べているが、「自叙伝」というのは、自分を正しく見つめること即ち自分を正しく知ることをいい、それがラッセル自身の人生哲学である。そのことは同意するしかない。自分のことを正しく知らないで、どう正しく生きよというのか。fact を生きるか虚飾を生きるかと択一を迫られるなら、やはり fact を生きるべきである。
「私は批判されたらダメなの、心が折れるの、それだけはしないで…」と言われて驚いたことがある。それとまったく対照的な女性は、付き合う前に、「気がついたことがあったら何でもいってね」といった。前者の過剰な自己防衛感は付き合いに区と即座に判断した。甘やかされて育ったことで、批判慣れしていず、釘を刺されたのだろうが、人を批判しないで生きていくことは不可能である。
言いたくても言えない、言ってはいけないということは、自身のなかにストレスを溜めこむことにもある。後者の女性は、いうまでもなく後向上心の強い女性であった。小さく姑息に生きるか、視野を広げて大きく生きていくか、分かり易く違いを述べらが、ついでにそのことに思考を巡らせた。他人の批判を受け入れられないのは二通り考えられる。親から否定しまくられた、親から一切否定されなかった。
前者は自己を否定され続け、せめて親以外の世間の誰かには、自分を認めて欲しいという願いかも知れない。後者は、親から一切の否定をされず、過保護に育った可能性が考えられる。自分の家、自分の親への安住意識が強く、それが世間の荒波の中では耐えられないということか。どちらもよいことではなく、そこから導き出された結論は、親は子に是々非々な対応が望ましい。
厳し過ぎるのも、甘やかせるのもよくないといえば簡単だが、この加減が人には難しい。が、賢い人は、そういう能力を持った人に当て嵌まるのではないか。「賢い」という見方は様々に存在する人間の秀でた能力といえる。心筋梗塞や脳卒中を患った人が医師から、「タバコを止めなさい」といわれて、スパスパ吸うのは賢いといえず、賢さはその意味でも自分(の状況)を知ることだ。
「自分をちゃんと見ている人」正直、凄いというしかない。自分なんかもまだまだできていないが、見るからにそういう人がいる。人は互いに非難し合うことはできても、互いに理解し合うことは難しい。我々は常に自分の視点で物を見、経験や知識で他人を判断する。だからか、自分に都合の悪いことを、自分に対する裏切り・不誠実さと理解し、相手の立場に立って、その人を理解しようとはしない。
確かに相手の立場にたって相手を理解することは、意外と難しいようで実は簡単でもある。なぜなら、乳児や幼児を育てる母親は、その子の立場に立ってすべてを考えることができる。それは乳児や幼児がには自我が確立していないからでもあり、反抗期にもなると逆らう子どもに憎悪まで感じる親もいるという。それも賢いとはいえないが、そういう場で賢くなるための秘訣や訓練をするのが賢さでもある。
やはり基本は自分を知るということか。兵法家として名高い孫氏に有名な言葉がある。「相手を知らず、自分も知らずは百戦百敗」。「相手を知り、自分を知らずは百戦五十敗」。「相手を知り、自分を知るは百戦百勝」。もちろん比喩であるが、言いたいことは良く分かる。自分を知ることも、相手を知ることも、「考える」ということによってもたらされるが、考えるための情報も重要となる。
「考える」ことの奥義は、自己肯定の是非と安易な他者否定への警鐘。極度に人を否定したがる人の本質は自分に自信がない。自信がないから他者を誉めるゆとりもない。さらには、自分だけが優れているとの驕りが見え、これはは前回の記事で指摘した。「驕り」というのは事実でも事実でなくとも、人間の無様な虚栄心である。それを隠せてこその自信であり、つまり自信は他者に披露するものではない。
相手を大切にできるのは自分に自信のある人。自信を持たねばそんな余裕は身につかない。つまるところ人間は、自分の抱える劣等感をどうするかで相手に対する態度が変わってくる。そこが人間のやるせなさであり、面白いところでもある。どちらにしても、自分を深く見つめるところからもたらされる。幸いにして、自身の短所に比べて長所は気づきにくい。だから短所の方が修正しやすい。