ノンフィクション作家の吉岡忍氏は、2003年7月9日の朝日新聞に、「『自分以外はバカ』の時代」という小論を寄せている。氏はここ数年来、この国から地域社会と企業社会が蒸発し、人々がばらばらに暮らすようになったと指摘する。地域と企業は戦後の半世紀のなかで、良きにつけ悪しきにつけ、この国を経済大国に押し上げることに寄与したクルマの両輪であった。
ところが近年、地域や企業では、「自分以外はみんなバカ」という罵り合う様相がみえる。子どもが通う学校もそうかも知れない。吉岡氏の指摘から16年経ったこんにち、その様相は以前に増して膨れ上がっているようだ。人間の自尊感情は否定されるものではないが、自を尊く思う心が他人を見下したり侮辱したりすることでなされるなら、なんとも歪なことだといわねばならない。
妬みや嫉みを起こさぬ人間はいないが、妬み・嫉みはよくないものという、「善の心」が希薄になりつつある昨今なのか。誰でも人から賞賛をを受けたい、人から否定されるより賞賛されたり承認されたりで生きたい、子ども時代からの願いであろう。ところが競争社会の激化や、親が我が子に絶対価値をを与えなくなった子どもたちは、賞賛や承認を受ける機会が少なくなった。
親は子どもをおだてや励ましをするが、無条件の賞賛や承認はそれらとは別。「うちの子は頭は悪いがいい子」、「心も気立ても優しい思いやりがある子」などの愛情で子どもをみる親が少なくなったのだろう。子どもに、“いいこ”といい続ければ、いい子になろうとするものなのに、価値の画一化を信奉し、拠り所にし、人間の能力が勉強や有名校に行くことで決まるという親が大勢だ。
こんなことは昔はなかった。塾のなかった時代の子どもの頭の良し悪しは、本人の学習意欲で決まったし、したくない勉強、嫌いな勉強を無理やり尻を叩いてさせることもなかった。高度成長期の只中にあって、親が働きづくめで忙しかったこともあって、それほど子どもにかまけていられなかった。あの時代の親は朝から晩まで必死で働き、子どもは遊ぶのが仕事であった。
親は我が子の頭の悪さを嘆けど恥じることはなかった。子どもを誰より知る親は、この子は手に職でもつけさせた方がよいと、子ども主体に考えていた。大工や左官、理美容師や看護婦、和裁・洋裁に料理学校などの花嫁修業を、我が子のためにと課す親が多かった。近年の女子の花嫁修業といえは、大学卒という履歴であり、最低でも短大卒を志向する親が増えている。
それが「人並み」という時代の要請なのだろう。本当に子どものためなのか親の見栄なのか、仕向けられる子どもたち。昨今、子どもへの賞賛は明確な実績が伴わないと得られない時代である。子どもたちはそうした蓄積する不満を解消するためのか、手っ取り早い手段として、「自分より下」人間を目ざとく探すようになる。それに加えて、「自分より下」を打ち砕こうとする。
こうすることで委縮した自尊感情を回復させようとするのだ。全国の学校で多発するいじめ事件にもこうした問題が隠されている。多くのエリートを信者としたカルト教団「オウム真理教」の事件は今なお人の心から消えることはない。信者たちは麻原彰晃を教祖と敬い、中でもエリートとされる高学歴信者は、自分たちを穢れた世から救済する「選ばれし者」と思い込んでいた。
彼らはそういう役職に就くことで自尊心を満たすことになる。あげく彼らは自分たち以外の大衆すべてを「凡夫」と見下し、蔑んでいたという。そうした他者軽視があればこそ、無差別大量殺人テロが可能となる。物事には深い理由と意味が存在し、それを知ると知らぬでは事象の捉え方も変わってくる。人を虫けら如く殺したのは教祖の命というより、彼ら自身の主体性でもあった。
若者が未熟であるのは自分の経験からしてもそうで、バカさは経年で分かることで、当時はいっちょ前と思っていた。如何に現実から離れた高邁な理想を掲げていようと、若者には普通のことだった。自分はそんな大それた夢も理想もなかったが、高い理想を所有する奴らは、常に高い位置から他者や世間を眺めていたし、低俗や思想なき者への強い批判をもっていた。
全共闘世代特有の騒乱は今に思えば若気の至りで、マルクス・レーニン主義に傾倒するあまり、「この国を直すための実力行使は当然」と、暴力革命を基軸に国家権力に挑んだ。自身の高い理想に比べ、他者の能力や実社会の現実はあまりにも低級で汚れていると軽蔑する。相対的に自尊・自負の情が誘発させるが、他人の無力には気づけど、己が無力に気づき、顧みるだけのゆとりもない。
若者の他人蔑視・他人軽視は当たり前に存在するのは、自己肯定感を模索する過程で仕方のないこと。さらには実在するもの・ことを、自分に都合よく解釈し、想像する精神的なイメージ概念をポジティブ・イリュージョンといい、①自らをポジティブに思考する、②将来を楽観的に考える、③外界に対する自己統制力を高く判断する。この三つの領域からなるとされている。