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五賢人の死生観 ②

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死が何かを永遠に知ることはできないが、老いが何かは老いて分かる。多くの人は老いとか加齢についてネガティブなイメージを抱いており、事実、高齢化社会の示す問題は暗い陰鬱な者は多い。最近とみに発生する高齢者の自動車運転事故には、同情さえ沸き立つが、高齢者の判断力の鈍化や健忘性は否定できない事実である。さらには知能検査上の成績低下や身体的動作性の低下も著しく減衰する。

「老年期こそ人間一生の生きざまの果実である」という言葉もあるが、死に至るまでせっせと働き続けるのも一つの生き方であろうが、願わくば悠々自適に生活したいものだ。心理学者のユングは晩年にこう述べている。「人々が私を指して博識と呼び、『賢者』という称号を与えるのを私は受け入れることができない。一人の人が川の流れから、一すくいの水を得たとしても、それが何であろうか。

私はその川の流れではないし、流れのほとりに立ち、何かを成そうとするのではない。同じ川のほとりにあって、ほとんどの人はそれによって何かを成そうとした。私は何もしない。私は立ち、自然がなしうることを賛美しつつただ見守るだけである」。何度目にしても素晴らしい文である。文が美しいのではなく、ユングの心と頭が聡明で美しい。こんな境地を模倣する以外に手立てはないであろう。

ユングは老子の「俗人昭々、我独り昏のごとし」を賛美しており、これは老子第二十章にいう、「俗人は昭昭たり、我は独り昏昏たり、俗人は察察たり、我は独り悶悶たり」である。意味を一言でいうなら、「学問は絶った方がよい」と述べている。その理由は、学問で得るものも多いが、これまで何とも思わなかったことが悪く見え、物足りなく思うものも増し、不安も不満も増すことになると。

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我々凡人に向けられる言葉というより、老子のような賢者による深い考察のなかから生まれてきたのではないか。バカはとりあえず賢くならねばならない。多くを学び研鑽から得た後に、「さて、どうする」、「さあ、どうするのだ」と問うているようだ。域に達した人には域に達した苦悩もあるのだろう。我々は先ずは域に達することが要求される。とりあえずは賢者・賢人に学ばねばならない。

され、「五賢人の死生観」との表題だが、堀の死に対する思いは述べた。林田はこんな面白いことをいう。「我々が生きているのは、単に死が怖いからだ」。美辞麗句を排した言葉に唸らされる。否定する者もいようが、本当に否定できるのか、腹の底は分からないが、さばがら腹の底を開いて見せた林田は信用できる人である。世の中には巧言令色好みのなんと多きかな。

口ばっかり、いうばっかりで何もしない人に多い。綺麗ごとを並べ立てて、実践してみろといっても土台無理であろう。しなくていいから言ってるだけである。確かに値打ちのある生き方というものはあろう。しかし、値打ちのある生き方を求めたからこそ、「本能への反省」が起こったことになる。しかし、そうした反省や挫折が、生きることへの意義そのものを否定することがあってはならない。

言い換えると、生きる目的を失ったなどと大袈裟に考えて自殺なんかすべきでないと考える。目的や目標を持つのは生きる力になるが、それが壊れたからといって死ぬ力になってはダメだろう。ありのままに、あるがままに生きることの喜びはいくらでも見つけることは可能なのに、値打ちのあるものを求めたあげくに死に急ぐ。生きる指針や死ぬ権利も個々の自由であるが、大言壮語を吐いて死んだ者もいる。

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これを自尊心というのだろう。そういう言葉は行き詰ることが多い。子ども時分の夢なら可愛くもあるが、物事を真面目に切実に考えると人間は死ぬしかなくなる。大事なことは遊びの精神である。加藤諦三は、「人間はつきつめて深刻に考えたら、自殺する以外に手はなさそうである」といっているが、人間として守る道徳など、どれ一つとして完全に守れる人間がどこにいるであろうか。

他人が不倫をした、汚職をした、人を殺した、そういう時にだけ都合のよい道徳家になっているに過ぎない。容易く人を批判し、石を投げる人間は多いが、誰一人として他人から石を投げられない人間などいない。にもかかわらず、言葉を荒げた批判はに教養の無さを見る。最近とみに目立つ文筆家気取りのゆでだこ男は、黙っていられない目立ちたがり性分だろうか。

「人生は遊ぶではない」という人もいれば、「人生は遊びだ」という人もいる。が、前者を主張する人が、果たして誰より生真面目に人生を生きたかどうかは疑問である。人間は言葉の動物だから、言行不一致は避けては通れない。したがって、極端なことを言う人間にはそれなりの理由があるのだろうが、心理的に見れば頷ける部分もあると、理解をしながら拘わらないのがよい。偽善者は無視に限る。

多くの宗教者に対してそうするのは自分のスタンスである。人間を信じて生きる人間と話をするのは楽しくもあるが、神や仏の話は講話ならともかく、日常会話には相応しくない。性を神聖な語り口で話す人間は昔に比べて少なくなったが、そんな奴が幼女を強姦して捕まった時以来、物の見方が変わった部分もある。当時は若かっただけに、ただただ驚き、キツネにつままれた心境を忘れることはできない。

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潜在的な性の猥褻さから逃れられない人間は、自らがその猥褻感に耐えられず、それをかき消し中和するために、性を神聖化する。真面目人間の多くは、理想主義の敗北を認めたくない人間という。人の表と裏が分かるようになると、人間の面白さが増してくる。それにしても坂口安吾の『堕落論』には驚いた。「人間は堕落しなければ救われない」という発想は当初理解できなかった。

太宰は安吾と亀井の共通の親友で、安吾はこう書いている。「彼(太宰)の小説には、初期のものから始めて、自分が良家の出であることが、書かれすぎている。そのくせ、彼は、亀井勝一郎が何かの中で自ら名門の師弟を名乗ったら、ゲッ、名門、笑わせるな、名門なんて、イヤな言葉、そういった…」。亀井と安吾はウマがあわなかったのか、文芸評論家の亀井に安吾の作品は無視されている

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