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五賢人の死生観 ①

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「死に意味があるように、生にも意味がある」という人がいる。「無意味」という言葉が存在するのは、「無意味」という事実があるからだが、意味のあることを無意味とし、無意味なことを意味あるとすることは世の中に山ほどある。そうしたすべてを意味付けと呼んで何ら差し支えないだろう。なぜなら、意味と無意味は相対性にあって人によって変わり、普遍的とは言い難い。

歴史の中で、「彼の死は意味のある死だった」というのはしばしば現れる。神風特別攻撃隊による敵へのに体当たりを、「意味ある死」とする日本人は少なくない。また、サイパン島で崖から身を投げた日本人女性を、「女性の誇りを失わぬ美しさ」、「日本人的な魂」などと称する人もいれば、「なぜだ?」、「どうして助かろうとしない?」と疑問を投げかける者も少なくない。


なぜに意見が割れるのだろう。戦争の実体験の中に自身を封じ込め、戦無派に呪詛の言葉を吐きつづける戦中派の思いは少なからずある。昭和16年12月8日、太平洋戦争開始より昭和20年8月15日、その敗戦に至るまでの間の戦死者総数は、行方不明者を含めて約260万人である。これを意味のあることとするのか、バカげたこととするのか議論は堪えぬが、ことのことだけは間違いない。

彼らは英霊と呼ばれ、白布に包まれた木箱となって待つもののところに帰って来た。空の木箱も多かったが、その中に目に見えぬ英霊たちを遺族はしかと感じたはずだ。「ナンノタレガシ 何歳 行ってまいります」の声を残して特攻に向かったものもいた。そうした遺族たちの心情を思えば、「無駄死に」とは口が裂けても言えないが、歴史の真実が情緒に飲み込まれてはならない。

そうした空気の中にあって、運よく生き残った従軍兵士たちが、まさに生ある者の責務として、勇気をふり絞って話はじめた。ある兵士は、「全員犬死にだった。戦争なんてそんなもんです」と語る。これに対して犬死にした者の戦友が、「よくぞいってくれた。どれだけバカなことを国に強いられたか、これまで誰も言わなかった」と胸をつまらせ涙を光らせて呼応した。

無慈悲で悲惨な戦争の実態が分かってきた。人間の言葉は長い間に繰り返し使っていると、必ず手垢に汚れ、枯死してゆくものだ。亀井勝一郎はこのようにいう。「『生きとし生けるもの』すべてが幸福にならぬ限り、自分の幸福もあり得ない」。屠殺されて、人間の食肉になる牛馬も生きる動物である。「ミミズ、オケラ、アメンボウ、みんな生きている」という唱歌がある。

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上記の文言は亀井のいう「愛」についての最高の形態であるが、「生きとし生けるもの」すべてが幸福にというのは現実的にあり得ない。仏教用語の「一切衆生(いっさいしゅじょう)という言葉は、この世に生を受けたすべて生き物をいう。つまり、「生きとし生けるもの」のことだ。日本に初めて仏教が渡来したとき、「一切衆生」なる言葉が当時の知識階級にどれほどのショックを与えたことか。

キリスト教も愛を説くが、仏教には、山川草木ことごとく仏性ありという愛の無限を告げる思想はない。亀井は幼児期に体験した有島武郎・芥川龍之介の自殺に驚き、大杉栄・伊藤野枝らの屠殺や小林多喜二の虐殺に胸を痛める。亀井は20代にして共産主義以外に日本の危機を克服する道はないと入党、「戦争は民族の再生であり、近代の超克」という共産主義の精神に傾倒していた。

しかし、彼の前にはだかる無数の戦死者を前に、彼らの端的な行動において、「一つの“純粋性”を実現した神聖なもの」と映った亀井は、共産党を脱党、仏教の信仰者として道を求めるも、「信徒の心を得ることができなかった」と述懐する。信仰によって永生を得るのは宗教の説くところだが、宗教に信徒するものは、「完全」に自己滅却をできるのか?自分自身に当て嵌めても到底無理。

半世紀をゆうに超えて生きながら、己を知ることすることすらできていない。つまり、己を知ることは己を限定することであり、自己に対し一種の諦念を抱くことで、確かにこれは人間にとっての聡明な生き方かも知れない。が、自分には無理なのは判る。だから、自分は宗教には近づかない。宗教に限定せずともされずとも、この世にはもっともっと他にやりたいことが沢山ある。

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五賢人のなかで、堀秀彦は死に対する強い関心を持っているようだった。彼は、「隠遁は死である」(1940年代)、「死の征服」(50年代)、「死を見つめることはできない」(60年代)、「死を怖れる」(70年代)、「死は憎むべき殺し屋」(80年代)と、年代を追って死に対する考えが変わっていく。来世を信じず、「死ねば塵に帰る」(旧約聖書)のキリスト教思想の影響を受けている。
 
「死は殺し屋」とは面白い発想だが、言い得て疑う余地はない。それは循環器疾患だったり、悪性腫瘍だったりと、人間の体の内部は常に殺し屋に狙われており、さらには道路上の鉄の塊であったり、悪辣な暴漢であったり、自然災害であったり、これらも広義には殺し屋である。様々な死から身を守ることは究極的には不可能だが、可能な限り生きる意欲と努力をすべきである。


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