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今さらながら、情死と心中

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太宰が玉川上水で自殺したのは1948年6月13日。遺体の捜索が難航し、遺体発見は6日後の19日。この日はくしくも太宰の誕生日でもあったことから、6月19日を太宰を偲ぶ、「桜桃忌」と名づけられた。昨年は没後70年記念で全国各地で様々な催しがなされ、太宰の人気の高さを物語る。「桜桃忌」の命名は、太宰と同郷である青森県出身の作家今官一よるもの。

亡くなる前月の太宰の短編『桜桃』と、彼の好物のサクランボにちなんでいる。自殺現場の玉川上水は、現在はさらさらと流れるせせらぎであるが、かつては水量の多い急流で、太宰の短編『乞食学生』に、玉川上水の流れの激しさが以下描写されている。「この土地の人は、この川を、人喰い川と呼んで恐怖している」、「川幅はこんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である」。

三鷹市付近は蛇行が激しく、水流で岸がところどころえぐられ、穴があちこちにできて、転落するとなかなか見つからず、自殺場所に選ぶ人が後を絶たなかった。上水に身を投げた人は、48年の上半期だけで太宰を含めて16人にも上った。情婦山崎富栄の遺体は、身投げ場所から1キロほど下流の水底で、黒のツーピース姿であった。2人は腰ひもでかたく結び合った状態で発見された。

富栄の死顔は、「はげしく恐怖しているおそろしい相貌」とされ、太宰の死顔は穏やかでほとんど水を飲んでいなかったことから、入水前に絶命していたか仮死状態と推測された。この事件は当時からさまざまな憶測を生み、富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。津島家(太宰の本名)に出入りしていた呉服商の中畑慶吉は、三鷹警察署で以下述べている。

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「私には純然たる自殺とは思えない。よほど強く"イヤイヤ"をしたのではないか」と確信をもって答えた。三鷹警察署長も、「自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、いまさらとやかく言ってもはじまらないが、実は警察としても(自殺とするには)腑に落ちない点もあるのです」と発言している。腑に落ちない点がありながら、心中として発表したのだから覆せないということのようだ。

情死を心中といい、心中を情死というが、どちらの響きにも男女の情念の終末思想が漂っている。「情死」という言葉にはどこか憧れを抱くが、実際の心中死体はひどいものらしく、あくまで精神世界の美学であろう。それも日本特有の習俗といわれている。『ロミオとジュリエット』、『トリスタンとイゾルデ』、『若きウェルテルの悩み』も物語の最後に恋人同士の一人、二人が死ぬが情死とはわけが違う。

なぜ日本には男女が申し合わせて相果てる「情死」なる二重自殺形式が、文学や現実社会で発達したのだろうか。皆無とはいわないが、情死を扱った外国文学がほとんど見当たらない、あるいは目立たないのは事実である。日本では江戸時代から近松門左衛門の「心中もの」は、歌舞伎や浄瑠璃で隆盛を極めている。江戸時代ばかりか、大正・昭和・戦後にかけて有名な情死事件がある。

これらには日本固有の道徳意識・美意識が存在する。恋愛にも芸術にも、仏教的無常感や武士道的禁欲主義の影響から抜け出せられないものがあり、これらの背景には来世への信仰をよりどころとした厭世主義がある。そうした窮屈な社会のなかで、我々の先祖はとかく困難な男女の恋愛の最高の理想を情死という美のなかに発見したのではないだろうか。

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心中する男女は死ぬ前に交わる。これは最高の情交であろう。最後の一発といえば品がないが、死刑前のタバコの一服にも似た感動は想像できる。若い頃の自分は心中が不思議でならなかった。「やって死ぬことはなかろうし、生きていれば何度もできように…」と、若さゆえの率直な思いである。最中に、「死ぬ、死ぬ」と喚く女性はいるが、本当に死んでしまえば本望か?

「生きることだけが大事である」。たったこれだけのことが分からぬ者が死地へ急ぐ。「生きることの何が大事か?」と問われるなら、「死んでみればわかる」と答えることが多いのは、理屈をいっても始まらない。生きることの有難さを感じない、分からないというなら、死んで分かるしかなかろう。だから死んでみよ。生の歓びが分からぬなら、やれそらと死んでみればいい。

「生きるって辛いね。疲れるね」なども聞くが、死ねば苦悩も疲労もない、「だから死のう」は本当に得なのか。まあ、死ぬ人間に損得はないのだろうが、損得を考えて死を躊躇う者、損得を考えて死を選ぶ者はいよう。それならそれでいい。死を得だと思うなら死ぬのがいいに決まっている。人には人の生き方があるように、人には人の死に方もある。それを自由といい、能力ともいう。

林田茂雄は、「自殺は人間の最後の自由」といい、亀井勝一郎は、「自殺は人間にのみ与えられた能力」という。堀秀彦は、「何のために生まれてきたか」の答えは絶対に出ないとし、それを掴み取るための人生という。分からないから生きてみるのだ。言い換えれば分かったら死んでもいい。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」というが、そう簡単には見つからないとの比喩であろう。

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