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五賢人 亀井勝一郎 ④

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亀井の膨大な著作の中で、『愛の無常について』、『青春について』などが多くの読者を持っているのではないか。あくまで推察であるが。『ニ十歳の原点』の高野悦子の1967年7月15日の日記にはこう記されている。「亀井勝一郎の『愛の無常』をぺラッとめくって読んでみたら、“人間とは何であるか”とか、“いかなる政治的党派、思想的立場をとろうと各人の自由であります。

しかし自由の最大の敵は自分自身であることに気づく人は少ない”なんて書いてあったので」。高野の同年10月7日の日記には、「あるひとはいう。“自由の最大の敵は自己自身である”」。“ある人”とはいうまでもない亀井勝一郎である。高野は二年後の1969年6月24日に自殺した。死なねばならない理由があったのだろうが、死なねばならぬ理由は、死に行く者以外に分からない。

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亀井の言葉を耳にするまでもなく、「自由の最大の敵は自己自身」というのは早い時期から身についていた。高野は18歳で気づいたようだが、問題は気づいたあと。上記したように、自殺者の心理というのは分からないが、亀井は、「自殺者の心理」と題してこう述べている。「自殺は罪悪だといいたいがいい切れない。自らに向かってはいい得ても、他人に向かってはいい切れない」。

「自殺は人間に与えられた能力」という亀井は、『不可解』の言葉を残して華厳の滝に飛び込んだ藤村燥を批判する。旧制一高生(現・東大教養学部)の藤村は16歳の人生を終えた。いくら頭がよくても16歳で何が分かろう。多くの疑問は先送りすればようが、早急に答えを求めた結果である。パスカルではないが、考えるということは、人間が人間として独立するための第一条件である。

「不可解だから生きる」、「不可解という絶壁に挑むべき」と、これが亀井の藤村批判の骨子である。「不可解」を絶望とするのではなく、「不可解」を生きるエネルギーにすべきである。やはり、というか自殺者というのは一時的もしくは慢性的な鬱状態なのか?謎や疑問があるから生が楽しい。思春期に抱く異性への興味や謎も同様である。「不可解」が我々を生かせてくれたのだ。

亀井は、「自殺者の心理」の末尾にこう述べている。「自殺も犯罪もその他一切のことは人生という不可解な謎から起こる。他人を笑うことはできません。自分も同じ危機の上に生きているのですから。人間相互の愛情は、そういう危機感から生まれるものだと私は思う。どうしていいか分からぬ人生に生きて、その分からぬという迷いにお互いの暖かい心を投げ合ったら…」。

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賢人だから耳にできる言葉である。「平和を乱すものは、不可解ということの分からぬ人間」と亀井は切り捨てる。「分からぬことを不可解というのではなく、“世の中は不可解なのだ”ということを分かれ」といっている。その先にあるものは、「不可解」を解いていく希望である。噛み砕いていうなら、「分からないから楽しい」。自分の将来が分かって楽しい筈がない。

「将来に不安を抱く」という人は少なくない。では聞くが、将来が分かって楽しいか?「何年何月何日に死す」と決められていて、どれだけ不安に苛まれよう。いつ死ぬか分からない、だから死ぬまで生きるのだし、いつ死ぬかなど知りたくもない。『愛の無常について』は女性読者が、『青春について』は男性読者が多いのではないか?とは自分の推測だ。太田光は自著にこう記している。

「最も好きな作家とする亀井勝一郎を、高校時代、大学時代に何度も読み、現実に何かあるたびに、『ああこれが亀井さんが書いていたあのことだな』とか感じたり、他の人間に薦めまくっていたのが『青春について』」。同著の見開きの表題は、「青春を生きる心」であるが、自らに問う。「青春とは何なのだ?」。以下に記した答えは今の自分の頭の中に浮かぶもの。

「青春とはひよこの時代」。何も知らぬものが何も知らぬ相手と、何も知らぬままに語りうごめき戯れていた。されど楽しく、だから楽しき日々。16歳にして「人生不可解也」で命を絶つって、それはまあ人の命だから所有者が自由にすればいいけれども、やり過ぎでは?自殺というのは、「やり過ぎ」の情動ではないかと。自殺者の心理は分からぬが、傍目にはそう映る。

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亀井は友人太宰の自殺をどう感じたのか。当然ながら亀井に太宰への論評が多く、一部気になるセンテンスを拾ってみる。「太宰は自己否定の名人」、「太宰の最も恐怖したのは恋愛と革命」、「太宰は恐怖から遁れる道を求めた」、「太宰は死に慣れていた」、「太宰は本質的に倫理的な人」、「太宰の死は倫理観が根底にある」、「太宰は人間の国にあって異邦人」。

太宰に寄せる亀井の親近感には並々ならぬものがあり、友人という現象上の関係によって説明しきれるものではなかった。それにしても太宰という人は一体に…。彼の最初の創作集がはなぜか『晩年』であり、当時27歳の青年であった。以後彼は自殺を前提にし、遺書のつもりで小説を書き始めたに相違ない。して最後の小説『グッド・バイ』は未完のまま絶筆となった。

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