当時、全国に広がる左翼思想運動思想は慨に山形にも入っており、勝一郎は、「山川均の『資本主義のからくり』というパンフレットを読み、共産主義との対決が念頭にあった」と書いている。"富める父"からの十分な仕送りの元、瞬く間の三年間を終えて大正15年、19歳で東京帝国大学文学部美学科に入学する。「文学部を見渡し、美学が芸術と一番関係がありそうで」との理由であった。
大学入学早々の(大正元年)1926年、中野重治と知り合ったことでマル芸(マルクス主義芸術研究会)に参加する。マルクス主義への急傾斜について勝一郎は、「富裕層に生まれた自分」、「マルキシズムは正しい」、「自分が没落する階級に属することの恐怖」、「2~3年のうちに革命が起こると確信」等々の心境過程をノートに記している。昭和3年2月、勝一郎は共産主義青年同盟の一員となる。
三・一五事件の1ヶ月前であったが勝一郎は、「学生であることに意義を見出せない」と大学を中途退学した。三・一五事件とは、昭和3年2月に実施された第一回普通選挙で無産政党から8名が当選した。当時非合法だった日本共産党が、合法の労働農民党を通して選挙運動を行ったことに危機感を持った政府は、3月15日に全国一斉共産主義者の検挙・捜索を実施、逮捕者は1500人にのぼる。
この後も治安維持法強化による左翼に対する徹底した取締りが行われるなか、勝一郎は政府の強権発動に恐々としながらの生活を続けていたが、ついに4月20日、治安維持法違反容疑で逮捕されてしまう。函館の父や家族はこの間どうであったか気になるろころだが、離れていることもあり、男の子でもあることもあってか、東京での勝一郎には余り干渉することなく自由にさせていたようだ。
親は子どもをあれこれと心配するものだが、心配したからといってよくなるものでもどうなるものでもない。何もできないということは、心配しないと同じことと、これは自分の親としての考えである。心配しようがすまいが事は子の周りで起こり動いていく。『亀井勝一郎全集 補巻3』に初めて収められた「ノート」、「獄中記」により、逮捕から出所までの過程や背景が相当に細かく分かる。
昭和3年4月20日、勝一郎は秘密連絡のため札幌の同志の家族宅を訪ねたところを張込み中の刑事に捕らえられた。10日後、手錠をかけられて東京へ護送された。一通りの取調べの後、5月22日に未決囚として市谷刑務所へ、夏には豊多摩刑務所へ送られた。21歳から23歳までの約2年半におよぶ独房での閉ざされた生活だが、重大容疑でもないのに異常な長期勾留を強いられた。
共産主義活動放棄を約束すれば早期釈放されたろうが、拒否をしたのは共産主義への信念ではなく胸中は揺れていた。勝一郎は後に、「組織から離反し背反の心的準備を重ねているようなもの」と率直に記している。出所して元の活動家に戻ることの価値に疑問を覚えるも、活動を離れることで裏切り者・背信者の謗りを受けることを恐れて身動きが出来なくなった。組織の呪縛は怖ろしい。
この時期は彼にとって板挟みを強いられた時期である。結局、昭和5年10月1日に転向上申書を提出して、10月7日に未決で釈放され、2年6ヶ月ぶりで塀の外へ出た勝一郎は、「革命家として入獄し、詩人として出獄する」と表現している。昭和7年12月、勝一郎は東京で知り合った斐子と結婚した。斐子の両親は強く反対したが強引な同棲婚で、結局は両家ともこの結婚を認める。
誕生から幼少期を経て青年期に入獄~出獄から、結婚までの亀井勝一郎の記録をざっと書いた。将棋の好きな勝一郎は昭和13年6月に阿佐ヶ谷将棋会に参加した。そこは、「阿佐ヶ谷会」と呼ばれる文士たちの集まりで、若き日の井伏鱒二、青柳瑞穂、田畑修一郎、小田嶽夫、木山捷平、外村繁、古谷綱武、太宰治、中村地平、上林暁、亀井勝一郎らが阿佐ヶ谷文士村の名簿に掲載されている。
将棋対局の後は酒宴となり、人生論や文学論、混沌の時世・女性談議に花が咲いたというからいかにも男臭く、むしろこちらの方がお目当てだったかもしれない。勝一郎は2歳年下の太宰治と親交があり、昭和17年元旦に井伏宅で満面の笑顔で撮られた2ショットが残っている。このころの太宰は健康的で愉快な人物であったと、勝一郎は自著『無頼派の祈り― 太宰治』に書き記している。
太宰自殺の報に触れた勝一郎は以下のように記しているが、これは巷で言われることとは大きく違っている。「昭和二十三年六月二十三日、自殺の報を聞いたときも、私は信じることが出来なかった。自殺の理由がどうしても考えられなかった。後にパピナール中毒の事など聞いたが、直接の死因は、彼女が太宰の首にヒモをまきつけ、無理に玉川上水にひきずりこんだのである。
遺体検査に当たった刑事は、太宰の首にその痕跡があったことをずっと後になって私に語った。しかし一緒に死んだのだから、そのことをあらだてるにも及ぶまいという話であった」。勝一郎が太宰の死について担当刑事から直接聞いた話としているので、信憑性が高い内容である。つまり太宰は、玉川上水で心中したとされる山崎富栄と死ぬ気など毛頭なかったということになる。