亀井勝一郎は明治40年(1907年)2月6日、北海道函館市に父喜一郎・母ミヤの長男として生を受けた。昔で言うところの家付き娘 (婿取り) だった母ミヤは病弱であったために、勝一郎は祖母(ミヤの母)の手で育てられた。函館屈指の富豪で知られた亀井家は、江戸後期に能登の国(現石川県)から移住し網問屋として財を成した。勝一郎の亀井家は有力分家の一つだった。
父は函館貯蓄銀行の支配人(常務取締役)のほか、幾多の公職に就く函館屈指の盟主・富豪であった。匂うばかりの美貌を蓄えた母は源氏物語を愛読する人であったが、勝一郎が10歳の時に病没する。勝一郎の端正な容貌と研ぎ澄まされた文学性は母親譲りかもしれない。勝一郎が13歳の時に教師出身の後妻(幾代)がきた。堀、林田、亀井といずれも継母であった。
勝一郎は当初幾代に馴染めず、父が昭和10年急逝すると亀井家の莫大な資産は幾代によって守られ、勝一郎の文筆活動も母の理解と支援に負うところが大きかった。しかし、幾代が昭和19年に他界すると、有能な管理者を失った亀井家は戦後の変動期とも重なり、終戦2~3年後には没落する。勝一郎は小学校入学と同時にアメリカ系メソジスト教会の日曜学校に通う。
中学3年まで通いながら宣教師から聖書と英語の個人教授を受けたが洗礼は受けなかった。生まれながらにして富と名声が備わっていた勝一郎だが、「富める者は罪人なり」という思いに至る以下のエピソードがある。中学1年のある寒い冬の日の朝のことだった。亀井少年が外出のため暖かい羅紗(ラシャ)服と外套を着て家を出たところへ電報配達の少年が来た。
つぎはぎだらけの薄い小倉の服に地下足袋姿、ひびだらけの手に電報を持っていた。少年は小学生の時、亀井とクリスマスの児童劇を演じた相棒だったことで、二人は顔見知りであった。偶然の再会に二人ははにかみながら互いの姿を見合ったが、少年は勝一郎に対して羨望の面持ちで無邪気に眺め、「君はいいなあ」と一言って冷気の中に白い息を残して去っていった。
亀井はこの時の衝撃を、「少年の僕が、初めて"富める者"という自覚を持つこととなり、且つそれが苦渋であることを知るに至った」と回想する。自分にも似た体験がある。高校3年の時、通っていたレコード店に同じ高校の2級先輩女性がそこに勤めていた。顔見知り程度だったが、彼女は自分が要望するレコード盤の視聴を、笑顔を絶やすことなく対応してくれた。
決して美人ではなかったが、大らかで優しい彼女に恋心を感じていた。ある日ふと目にした彼女の手はヒビとアカギレにまみれ、赤く腫れぼったくなっていた。「この人はここで働きながら家でも水仕事に精を出しているんだ」の思いが持ち上がり、何の苦労もせず、支障なくなくぬくぬくと生活する自分に罪悪感を抱く。そのことで彼女の思いが一層増すのが分かった。
この思いはなんだろうか?人への同情心なのか、自らへの自己嫌悪なのか、自分のことながら判然としないが、物事は上辺より本質が重要だと悟った。こうした本質重視姿勢は、人からちやほやされた不自由ない美人より、素朴で地味で目だぬ容姿の女性に心が惹かれるようになっていく。放っておいても男が群がるような美貌女性の、中身を見ない傾向は一般的だ。
反してブサイクな女性は中身こそが重要で、そこに美を見れば容姿など取るに足るりないものとなる。「お前はブサイクが好きなのか、それともブサイクでも好きなのか?」と友人にいわれたことがあるが、よく分からないので答えられなかった。「ブスはこの世に存在する意味がない」という男は多いが、メンクイ一筋女性も少なくない。所詮は他人事、人の生き方である。
非難も批判もないが、思うにブサイク女性には、本人が卑屈でないなら、人間としての宝を見出せるかもしれない。自分は子どものころから、「宝さがし」が好きだった。美人女性はそれ自体が宝で、それはそれでよい。「可能性」という言葉は何においても存在する。この世に存在する富める者と、貧しき者の差はそれだけの差であって、決して心持ちの高さや才能によらない。
秀逸な容姿に生まれ、裕福な家庭に生まれるのも運命である。自分は運命論者ではないが、こういうことは運命という以外にない。裕福な家庭に生まれた勝一郎は、上記の体験から、「富裕は罪悪では?」と考えるようになる。大正11年、勝一郎が中学3年のとき、町の公会堂で賀川豊彦の講演を聴いて、「富める者は罪人なり」と確信するに至ったと述べている。
大正12年、勝一郎は山形高等学校 (現山形大学) 文科乙類へ進学する。当時、北海道には北海道大学と小樽高等商業学校 (現小樽商科大学) があり、いずれも実業家を育てる校風で勝一郎の志望ではなかった。勝一郎の実家から本州で近くの旧制高校といえば、第二高等学校 (仙台)、青森の弘前高校、山形高校しかなく、この中からごく自然に山形を選んだという。