「生きる意味」について林田茂雄はこのようにいう。「『どう生きるか』と考えるより、『どう楽しむか』と考える方が現実的で、『どう生きるか』などいくら考えたところで仕方がない」。これらから林田は、どう生きるかと人生をどう楽しむかを同じとし、「これを別のもののように考えさせようとするのは、私たちから人生を楽しむ権利を奪いつづけようとしている人たちの謀略である」といっている。
「どう楽しむ」だけが現実的なのではなく、「どう生きるか」も現実的であり、したがって「どう楽しむ」かは、「どう生きるか」の答えの一つに過ぎない。「人間は何のために生まれてきたか」についてもいえることだが、いったいこの世に、「何かの目的を立てて生まれてきた者が、一人とているだろうか?」キリストや仏陀もそうではなく、「生きる目的」は目的を志向する人の人生観だろう。
我々は、「生まれよう」とさえ思ったこともないのに、気づいたとき(本当はそれさえ気づいていないが)はすでに生み落とされていた。生んでくれた親たちですら、「生む」という目的を立ててのことだったかどうか怪しいものだ。中には本当に子どもを生もうと努力をした人もいるだろうが、でき婚などの例が示すように、性行為という快楽の主体を否定はできず、子どもは性の副産物との事実もある。
「いえいえ、どんでもございません。子どもが欲しかったからつくったのです」という人も少なくはないが、物を欲しがるのは人の欲望であり、決してわるいことでは悪いことではなく、欲望を離れた人生論などあり得ない。自分の両親から、「自分をつくろうとした意味」を聞いたことはないが、仮にもし自分の子どもから、「何でわたしをつくったの?」と聞かれたら何て答えるだろうか?
妻の性格からして、綺麗ごとより正直な彼女は、「もう忘れた」とはぐらかすだろう。その場で考えて説明しようとの気転も起きない。昔から何でも、「お父さんに聞いて」で生きてきた彼女だから、おそらく、「お父さんに聞いて」といいそうか?思い出して笑えるのは長女と入浴の際に、父のナニを指さし、「これをお母さんのお尻に入れて赤ちゃんができる薬をだすと赤ちゃんができる」といったことがある。
その場では「ふ~ん」と頷いていたが、お風呂から上がったら間髪を入れずに母親にこういった。「お父さんから赤ちゃんができることを聞いたけど、おかあさん、お尻がくすぐったかったでしょう?」。妻は笑うしかない。こういう子どもならではの発想は大人には無理。子どもとはいっても現在は大人である。わたしをつくった理由を聞かれたら、「お前が想像することがほとんど正しく正解だ」と自分は答える。
答えを教えるよりも、自ら考えさせれば分かることは多い。それが子どもと大人の違い。教える時期もあれば、自ら考えて答えさせること重要だ。人間の基本や総体はそんなに変わるものでもない。人生の目的や、生きる目的に苦悩して人生を終える人間もいるが、そこまで責任感を持って生きなくともよかろう。答えは一つではないのだから、“どこに自分を見出せるか”の方が柔軟で積極的な生き方である。
「生きる目的などない」という無意味さに徹するのも、人生の晩年における楽に生きる境地であろう。青春期はそれを求めて悩み苦しみこともあろうし、それを蹉跌というが、老境に入ってそれでは身がもたない。人それぞれの楽しみがあるが、老齢に必要なのは省エネである。坂口安吾はこのようにいう。「めいめいが各自の独自なそして誠実な生活を求めることが人生の目的でなくて、他の何物が人生の目的か。
安吾はまた、太宰や芥川の自殺を、「不良少年」と揶揄しているが、彼らしい発想だ。自殺は学問ではなく子どもの遊びであって、限度を発見することこそが学問であると。太宰や芥川の自殺は、“限度の発見に至らなかった所業”と痛烈に批判をした。「生きる目的は、生ききることのみ」というのも安吾らしい。人の生きる意味を目的論に置き換え、言葉を置く賢人は少なくないが、亀井勝一郎はこう述べる。
「私たちは将来が分からないからこそ生きてゆけるのだ。この謎が生の根拠である。夢を抱き、夢を打ち砕かれ、さらにまた夢を抱いて、さ迷ってゆくのが人生のコースである」。人生のコースの予想は難しい。自分は将来どんな風に生きていくのかについて様々な思いや夢を抱くが、現在の仕事にしろ家庭環境にしろ、若い頃に予測したことと同じというのは稀ではないだろうか。
たとえば幸福という概念にしろ、若い頃は形に嵌った幸せを望んでいたのだろう。確かに枠に嵌ったものはあるのだろうが、それらとは別に自分独自なものが芽生えてくる」。五賢人はそれぞれに賢人であって、キリスト一人を信ずるよりはそこが楽しくもあ。一神教は真理であるがゆえに信じられるのだろうが、人によって真理が違っているものを真理と呼ぶのか?「真理と信ずる」が正しい。
エルサレムは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の聖地となっているが?なぜそうなのかは書物に書いてあるからで、実際は虚構なのかも知れない。堀も亀井も熱心なキリスト教信者であった。堀は洗礼までしたが、彼がキリスト教を止めた理由が変わっている。後妻に来た継母が熱心なキリスト信者で、大嫌いな母が同じ信者であることが耐えられなかった。嫌な母を嫌悪したのは理解に及ぶ。