4月27日の記事の最後、「(他人の文句に)腹を立てない方法を次回に記す」と書いたまま忘れていた。まあ、律儀に守ることもないが、「忘れていたと」いうのは自分の過失で、許してはダメだ。これまでになかったことが少しづつ露わになってきている。悔しいし残念であるが、忘れたならそれなりの対処を考えればいいのだろう。自分を責めても起こることなら先ずは対処だ。
人が何か善いことをやろうとするとき、孤立することはある。そのような事はいくらでもある。それに対する不満や愚痴も腐るほど耳にした。男の愚痴は聞くのも嫌で、他人のいう不満や愚痴を耳にする度に、「不満や愚痴を言わぬ方法はないのか?」などと、その都度考えたが、不満や愚痴をいうのを我慢するより、「不満や愚痴がないようにするにはどうすればよいか?」に行き着いた。
考えてみれば当たり前なこと。が、愚痴はともかく、人間に不満を無くすことができるだろうか?「おそらくできない」といえば簡単、それでオワリだ。完全にはできないにしろ、「できる」努力をする価値がある。答えのない問題や、心地よく生きるための難題を考えるのは楽しい。反面、人間の不満や愚痴が醜いことだと知りながら、それでも言いたい人はなぜだろうか?
これはそんなに難しいことではない。人間が悪をするのは、善悪の判断が分からないのではない。幼い子はともかく、悪いと分かっていてもそれをするのは、自分がそれを自分に許すからである。自分で自分を許すのだから罪にはならない。罪であっても自分を罰することをしないでいれる。だから人間は自分に甘い生き方ができるのだ。だからこそ、「自分に厳しく」が価値がある。
自分の母親は暇さえあれば、他人の悪口と自己の不満と愚痴ばかりいっていた。自分への悪口は絶対にいわない。母親からそういう体験を持った人は多いだろう。人間は不思議なもので、意識・無意識ともに親から多くを受け継ぐという。母は自分を隅から隅まで監視、掌握せねば気が済まない性格で、自分の机の引き出し、持ち物類から手紙に至るまで監視の目を緩めなかった。
手紙類は勝手に開封し、読み、女性からならゴミ箱に捨てるというのを、平然とやった。父が相手の名だけをチェックし、「今日、〇〇という女から手紙が来ていた」と耳打ちしてくれた。かつては母を柱に縛りつけていた父のなれの果てがこれかと不甲斐なさを感じたが、教えてくれるだけでも感謝だった。その時は分からなかったが、父なりのヒステリー対処法だったのだろう。
とにかく母のすることなすことは非人間であり、非道の意識が強く芽生えていった。「自分は自分の子どもにこんな思いは絶対にさせない」という誓いも必然だった。だからといって、親になれば親の論理が働くものだ。そこで自分を鼓舞させるかどうかであろう。親から受けた精神的打撃が大きければ大きいほど、鼓舞の力も大きくなる。つまり、子どもに対する抑止力が強く働く。
ある日の妻と小5~小6ころの長女との会話を思い出す。「お母さん、また私の机の引き出しを荒らしたでしょう。目印をつけているからすぐに分るんだから。もう止めてよ」。母親がどう答えるかと思って聞いていたら、「別にいいじゃない、見たって。何か困ることでもあるん?」。これはまったく想像しない発言だった。こんなんでいいのか?こんなんで済んでしまうのか?
心に残る不思議な光景だった。二人の会話は何ら険悪なものでもなく、どこか馴れ合いのようなものであった。母と娘のとの心を開き合った馴れ合いの関係である。自分と母には絶対に存在しない阿吽の心の繋がりである。それでも自分は妻に言った。「子どもの机の引き出しを荒らすのは止めたら?」と、その光景を見ていたのでトーンは柔らかめだが、善くないといったつもり。
「いいのよ別に…」と、妻は何ら悪びれることなくいった。自分にはそのやり取りと行為そのものが母と娘の繋がりのように思えた。娘も決して困ってはいないし、いやだといいながら、見るか見ないか、見たかどうか、目印をつけて楽しんでいるようでもあった。母と子というのは自分が体験した以外の在り方もあるのだということを、その体験から知ることができたのだ。
ブログは公にするものであるから、当然ながら人は見、人は読むが、人が見るものだという前提を忘れてはならない。自分は自他への許容範囲が広いので、自制をしなければ何でも書いてしまうところがある。したがって、結構抑えて書いているところはある。公共物ゆえに歯止めも大事であり、「そういえば…」、と思い出せば、以下のような注意を頂いたこともあった。
「最新記事のトップの写真、まずくはないですか?おせっかいかもしれませんが、気になったもので」。こころあるファンの方からゲストブックに、「秘」での配慮を頂いたこともある。というところでのっけに戻るが、「何か善いことをやるとき孤立することはある」というのは、「当たり前にある」、「当然にして起こり得ること」などを自覚し、改善策はそれにどう対応するかにある。