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五賢人 林田茂雄 ④

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五人は昔の人である。それをいうなら釈迦やキリストは大昔の人である。短い人生の中でどれだけの人と、どういう出会いをするかが人の一生ではないだろうか。先人の言葉に耳を傾けるだけでは教えとはいわないまでも、教えとは実践ばかりとも限らない。「友情は単なる遊び仲間の交情とはいわない」と、これは亀井勝一郎の言葉である。「悩める魂と魂の格闘による結合こそ友情」であるという。

こんな言葉は先人でなくて耳にすることはない。亀井は、「邂逅」という言葉をしばしば用いるが、「邂逅」とは思いがけない出会いの意味がある。邂逅と友情こそ人生の重大事ではなかろうか。愛あるところに死があるように、邂逅あるとことには別離があるのが世の常。林田は友情についてこう述べている。「友情は気の合ったもの同士でなりたつというが、そうともいえるし、そうでないともいえる」。

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     「人生は多くの出会いを通じて物事を知り、見えぬものに気付くようになって終える」という意味


林田がいわんとするのは、「気が合うばかりでも友人には不向きだが、どこか気が合わないことには友人になれない」。とだけ書いているので、気が合うだけでは友人として不向きの理由を考えてみる。そのことを考える前にかつて自分に、「いい友人」はいたのだろうか?友人と名のつく連中はごろごろいたが、「いい友人」とは一体どういうものなのか?「よくない友人」でないのが、「いい友人」か。

であるなら難しい、「いい友人」を定義するまえに、「よくない友人」を特定すればよい。よくない友人を思い出してみるが、「いない」。そんな友人は早い時点で避けたからだ。自分は昔から無理をして人と付き合わない。自分にも無理をしないから他人にもしないということだが、「無理してもつき合わなきゃいけない人っているだろ?」と人はいう。みんな苦労してるんだろう。が、自分にはいない。

「無理をしてつき合う理由がない」。「何かいいことなどある筈もない」という、簡単な論理である。相手からすり寄ってこようと、自分を害する何かを感じたら、愛想をしなければ相手にだって伝わるし、嫌だから拒否をするのではなく、ワイワイつるむより、独りで考えたいからである。友人とか親友というのはその気になればいくらでもできる。問題は増やした友人をどう処理していくのかということにならないか?

何事も手を広げすぎると収拾に苦労することになる。その辺りのことが分かっているからでもある。友情が愛情に比べて薄情とは思わぬが、人はその日その日を生身で生きているわけだから、自分の都合で友人の誘いを断る事もあろう。無理をする人間は断ることを、「悪」とし、だから無理をする。自分にも他人にも無理をしない生き方を孤立というが、そんな風には思わない。

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   「人はなぜに集まり、なぜに飲み交わし、なぜに騒ぐ」。一人で生きていないという証であるから…?


過去、友人について幾度も自問した。友人は互いが利用したりされたりの関係であるものであることに気づいた。「今日、飲みにつき合えよ」と誘うやつは言葉は悪いが自分を利用している。同じようにやはり自分の都合で相手を誘うのも無意識の利用である。それを友人関係というのか?こういう身近な問題に答えを出すのが案外と難しいが、結論は、「友人ではあるが友情ではない」だった。


友情とは互いに生き合い生かし合いであるから、自分の負担になっても、相手を負担にさせてもダメということ。「飲み友達」というのは時代や状況にマッチした新語であろうが、的を得た言葉ではないか。「飲み友達」とは飲むだけの友達のこと。だから飲まない自分に「飲み友達」はいないが、「将棋友達」というのはいる。将棋友達とはハッキリいって、将棋を指す以外に何の必要性も感じない相手のこと。

しかし、「将棋友達」といえど、広義の友人であろう。が、そこに友情は発生しない。将棋をするのに何の友情がいる?友情には友情という土台があるが、飲み友達や将棋友達は、人を選ぶではなく行動で選んでいる。そうはいっても、「一緒に飲む相手なら誰でもいい」、「将棋を指せる相手なら誰でもいい」とはならず、やはり気の合う相手でなければならない。

「飲み友達だったが喧嘩で絶縁した」ケースがある。「将棋友達」なのに喧嘩で二度と対局をしない同士もいる。カッとなって思わず言い合いから喧嘩になるのは誰でも経験があろう。誰しも平和を望むが戦争は人間の意志に反しておこるもの。人間に喧嘩の本能がある限り、この世から戦争をなくすことはできないだろう。カッとなって喧嘩になったのは、感情に押し流されたということでは?

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        「人はなぜに言い合い、なぜに争い、なぜに傷つく」。一人で生きていないという証である


「思わず」というくらいだから、その瞬間には理性も意志も働いていなかった。したがって、「理性的なところに人間のしるし」があり、カッとなって、「分別を失うのは動物のしるし」といえる。「人間も社会的な生き物」としての動物であるのは疑いない。しかし、人間には理性と意志で感情と闘うことはできる。「思わずカッとなる」のを抑えるのを訓練することができる。

人間の素晴らしさは、動物的な弱点をなくすことである。人が何か善いことをやろうとするとき、孤立することは往々にしてある。善いこととは私益ではなく公益であるが、他人からすれば文句の材料になる。そういう時に腹を立てるのが人間というものだが、腹が立たない方法もある。自分も若い頃は腹をたてたが、自分なりの腹を立てない方法があるので次の記事にて書いてみる。

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