人間は社会なしには生きられない。人間個人の命というのは他人全体の命の活動に支えられて生き、活動しているということになるが、個人の命はまた他人全体の命を支えている。「人を殺すということがなぜいけない?」の理由は、こうした全ての個人を人間として生かしている協同社会に傷をつけることになるからだ。人を一人殺すと一人分の傷を残す、だからよくないという考えに説得力はある。
このように殺人の善悪を協同の原則から割り出すなら、協同原則を守るためには社会協同の敵を抹殺することが善ということになる。この建前から多くの国が法律で死刑を認め、これが死刑という刑罰の本質である。死刑に議論があるのは事実だが、それは社会協同の敵を殺すことが本当に善であるのかという新たな問でもあるからだ。林田は共同社会・共生社会にユートピアを抱いていた。
人間が物事を執拗に問い続けるのは、自身の観点の正しさを追求するからだが、上記したように、殺人を協同原則から考える場合と、人の生命を個人の尊厳としてみた場合とでは自ずと考えが変わってくる。社会協同の敵を殺すのを善とするなら、戦争で人を殺すことも善となる。別の観点からみると明らかに間違っている。観点とは国家主義ということでもある。すべてのことは見方によって異なってくる。
などと問い詰めると、絶大なる疑問も湧いてくる。賢人が二番で聖人が一番というなら、人間と神はどちらが優れ、どちらが偉いのだ?もちろん人間というのは聖人ごとき悟った人、帰依した人のことである。つまり、仏教の開祖である仏陀は人間であって神ではない。比べてキリスト教を始めたイエスは人間ではなく神の子なのか?聖書は神の言葉を綴ったものである。
ナザレのイエスには様々な解釈がなされ、新たに生まれては消え、消えては生まれる。イエスが十字架上で息絶えたのは、「数々の奇跡的な行動をした私もあなた方と同じ人間だ」と身をもって示したという考えもあれば、数年前には、「イエスは十字架に磔刑にされず、さらに彼は神の子ではなかった。イエスは神の預言者だった」という聖書が見つかった。
「イエスは生存しており、彼の代わりにイエスの弟子の一人が磔にされた」とするイエスの十字架刑を否定する1500年前の聖書のページが2000年に発見され、アンカラの民俗学博物館に保管されているという。こうした重要な記述が検閲で省略されたというなら、聖書は極めて都合・不都合の問題が多い。1500年前からキリスト教の連中は一体何をやっとるんだ?
仏教を信じる人とキリスト教を信じる人の根本的な違いは、後者は奇蹟を信じるが、仏教徒はそれを信じない。自分の知人にもキリスト信仰者はいるが、神を信ずるものは間違いなく100%奇蹟を信じている。言い換えるなら、「奇蹟を信じてはじめて神は在りという断言にいたるのだろう。ただし、同じ仏教徒でも法華経信者は奇蹟や超能力に向いた節がある。
強烈な無神論者であるラッセルは、賢人であって聖人ではない。自分は堀、安吾と賢人について書いてきたが、聖人は奇蹟を起こすが賢人は奇蹟などとは無縁である。聖人は理性外の行いを可能とするが、賢人の思考は理性を逸脱しない。聖人は全能であっても不思議でないが、賢人は頭の良い俗人である。神を信ずる人は100%に近い確率で奇蹟を信じるという。キリストの再臨を待ち侘びる。
奇蹟というのは本当に起こるものなのか?奇蹟的なことは過去に多く起こっているが、それらのことはすべて可能性の中で起こったのではないのか?全く可能性のない、あり得ないことが起こるのが奇蹟であるなら、これまで起こった奇蹟とは奇蹟的なことであろう。奇蹟は起こらないが奇蹟的なことは起こる。その程度は自分ですら認める。では本当の奇蹟とは脈拍停止状態からの生き返りである。
脈拍停止とは心停止と同じ状態で、救急医療では心停止後1分間ごとに10%ずつ救命率が下がる。グラフでは5分の心停止で半数が死ぬ。脈拍停止状態が10分以上経過して生き返ることはない。これが現代医療の常識となっている。キリストが人間なのか神なのかは別にして、多くの奇蹟が報告されている以上、ただの賢人ではなさそうだ。もちろん、誰もがキリストを聖人といっている。
が、神であるのかどうなのかは論議が尽きないアインシュタインもラッセルほどに明確な神の否定は行っていないが、亡くなる一年前の1954年に書かれた哲学者エリック・グートキンドに宛てた書簡にはこう書かれている。「私にとって神という単語は、人間の弱さが生み出した産物以外のなにものでもない。聖書は尊敬すべきコレクションだが、やはり原始的な伝説にすぎない」。
2018年3月に他界した天才物理学者ホーキング博士の最後の著書『大きな疑問への簡潔な答え』のなかで博士は、「何世紀もの間、私のような障害者は、神に与えられた災いの下で生きていると信じられていた」。「だが私はそれよりも、全ては自然の法則によって説明できると考えたい」とし、「神は存在しない。宇宙を司る者はいない」と断言するが、天才科学者の言葉であれど証明ではない。