人間が誤った原理や観点で国家主義をとっていることも考えられる。イスラムの原理主義とキリスト教社会の長きに及ぶ対立は象徴的である。死刑廃止国家と死刑実施国家の善悪の根幹にあるのは価値基準の相違である。人道主義か協同主義かを問い直すということも、その場その場に与えられた人間の思考の義務である。人を殺すという価値の正当性とか否定…
戦争の問題、死刑の問題、安楽死の問題、自殺の問題、これらの問題に純然たる真理があるのだろうか?正鵠を射る原点を見つけられるなら善悪の正い価値判断もできようものだが、人類とは雑多な人間の集団である。彼らにとって唯一正しい価値というものを人間は信じ模索し、そこから生まれたのが宗教である。が、その宗教でさえ割れてしまっている。
道徳や倫理の上に宗教が存在すると考える人たちは、「善悪の基準」を宗教に求めるが、「世界を滅ぼすキリスト教」と哲学者が指摘するように、一神教の恐怖というのは真理を主張するためなら人殺しもやれば、世界を戦火に巻き込むことさえ厭わない。利他愛の実践であるはずの宗教が教義で個人を束縛する。日曜日に教会に行かないことが罪であると…。
「宗教はアヘンである」とマルクスは言ったが、マルクス主義に傾倒した林田は、やがて唯物論から宗教的唯心論へと道を転換する。1948年には二作目となる著書『マルクス主義人生読本 マルキシズムと宗教』、1950年には『たくましき親鸞 共産主義者による再発見』、同年に『般若心経の再発見 仏の道とマルクスの道』を著す。いずれも読んではない。
彼は仏教に傾倒し、親鸞を評価するようになったのは、林田自身が親鸞についての本を読み、これまでの間違った親鸞像から新たな認識に至ったという。これについて林田は、「親鸞を迷信的な諦めの親玉のように思いこませ、自らが搾取者の地位に上り詰めた本願寺僧の、「ねじまげ説教」を罪であると批判する。林田は親鸞に関する本をこれまでに4冊著わしている。
以下は親鸞という名が表題にあるものだ。『たくましき親鸞 共産主義者による再発見』(1950)、『歎異鈔の問題点 親鸞をけがす歎異鈔』(1955)、『親鸞 たくましき求道者』(1956)、『親鸞 知恵と勇気の教師』(1959)、『親鸞の思想と生涯』(1981)で、これ以外にも、「般若信教」や、「維摩経」などの仏教系の著書数冊があるが、読んだのは、『親鸞 たくましき求道者』一冊のみ。
林田がカール・マルクス思想から親鸞へと移行したのは、「信心は最高の知恵」と感じたとし、以下述べている。「如来の本願が、ただ絶望的な人間の慰めになるだけの話なら、信心なんてくだらないし、社会にとっては何ら積極的な意義は持たない。信心がそれだけのものだったら、親鸞とマルクス主義者とが、同じ道に肩を並べているなどとはいえない。
キリスト教の神は世界を創り人間を造り法を作った。法とは神のこと。神によって作られた世界は絶対不変、不滅であり、神の言葉は永遠の真理である。仏教によれば、世界は久遠の昔から「如」としてあったもので、誰が作ったものでもない。仏法が法を作ったのではなく、法は仏教の中に客観的に存在し、それらを悟ることによって、凡夫でさえ仏になれる。
仏教における信心の智慧とは、如来の智慧である。いったい如来の智慧とはなんであろうか。それをハッキリしないで仏教を知ることにはならない。如来の智慧とは仏の智慧である。といっても分からなければ、仏とは悟りし者のこと。何を悟ったかといえば実在する諸法の真理である。くだいていうならありのままな存在の真理を悟る智慧ということになる。
言葉にごまかされることなく追及するならば、「ありのままの真理を、ありのままに悟る」ためにはどうすればよいのか?そのためには自我という分別を捨てることだということになる。これが林田が、「信心は最高の智慧である」に至った答えであろう。一切の主観や色眼鏡を外して、あるものをあるがままに受け取ること。それこそが如来の智慧であると林田はいう。
原罪を負った人間は神に従うことによって正しく導かれるというように、仏教においても釈尊の教えを信じて実践することが凡人の人心を高めるすべであるという。信仰とは何かを信じること。宗教とは生きるための宗を教わること。愚かな人間というのは、聖人の教えを受け入れることであると。だからあえて問うてみる。「なぜ賢人ではダメなのか?」と。
聖人…徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物
賢人…聖人に次いで徳のある人。また、かしこい人。賢者。
賢人…聖人に次いで徳のある人。また、かしこい人。賢者。
聖人は賢人の上にある。「一番でなきゃダメですか?」とはどこかで聞いたセリフ。二番の人と一番の人がいるなら、一番の人の言葉を聞き、従うべきではないのかと、宗教者はいう。それが宗教の本質のようだ。賢人は間違うが聖人に間違いはないのだと。だから、仏典や聖書には絶対に間違いはない。はて…?自分は人間なのだから、正しく生きずとも賢く生きたい。