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五賢人 林田茂雄 ①

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五賢人の三人目は林田茂雄。彼は無学の徒で、堀、亀井、加藤らは東京帝大卒、坂口安吾は東洋大卒。無学といえ熊本第二師範学校中退だから秀才である。師範学校にバカは入学できないが、中退理由は母と反りが合わずに家出をしたこと。林田は17歳で故郷の熊本を捨てて東京に向かう。彼は若き時代に三度の自殺を考えたという。一度目は林田が8歳だから、小学三年生のときだった。

その時の様子を以下記している。「私は2歳の時に母と生き別れ、その後継母の手で育った。芸者あがりの継母は、我儘で寂しがり屋のヒステリーで、私は毎日毎日ひどい目にあい、体中はあざだらけだった」。そんな林田はある日、裸足で家の裏口から抜け出して田んぼ道を北に2kmばかり歩き、隣村との境の大きな川に飛び込むつもりだったが、ある偶然によって自殺は回避された。

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ある偶然とは長くなるので省くが、二度目の自殺は15歳、やはり母の仕打ちが原因だった。姉が婿養子をとって一緒に暮らしていたが、姑(母)の仕打ちがひどくて婿は実家に帰ってしまう。父は茂雄に婿養子に家に戻るよう使いに走らせた。継母が家に来てから騒動が絶えない。義兄を呼び返してもこんな母では騒動が収まることはない。茂雄は母を考え直させる方法を考えた。

林田の考えとは、自分が自殺すれば義兄も自分に免じて家に帰ってくれるだろう、母も驚いて考え直してくれるだろう。二度目の自殺の動機は、絶え間ない家庭のごたごたを修復させるという、いささか幼稚な少年のロマンチックな情動だったが、結局自殺は行わなかった。三度目は20歳から22歳にかけての頃で、このころが林田にとってもっとも危機的な時代であった。

芥川龍之介が自殺をした後、芥川と同じような死の誘惑が林田を捉えていた。自殺の連鎖である。芥川の自殺を機に、林田はなぜ人間が自殺をするかについて思考を巡らせた。そこで分かったことは、人間の命はただ生きることだけを求めていず、生き甲斐を求めていることに気づいたという。騒動の多い実家を飛び出して東京に向かった17歳のとき、彼も生き甲斐を求めていた。

林田は上京するとすぐに日雇い人夫として働いた。何をおいても食べることが先決である。最初の仕事は橋造りの測量手伝いだった。立派な橋ができ、その橋を人が往来するのが嬉しかった。そんな折、マルクス主義に傾倒し、左翼活動を行っていたが、25歳で検挙され6年間の入獄体験をする。懲役という強制労働もプロレタリアートを自負する林田は、社会のためと労働を楽しんだ。

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「人間とは何か?」について、多くの人間が思考し規定したが、当時、もっとも説得力に長けていたのは、「人間は考えるために造られている」としたパスカルの人間観で、林田も感銘を受けていた。人間は考えることで善い行動を選択できるばかりか、考えることは人間を新たな人間に造り変えることもできる。ダーウィンやニュートン前の社会は、形而上学が幅を利かしていた。

「人間は何のために生まれたか?」という命題だが、生み落とされた側に明確な答えを出せない。そこで答えのないことを認めつつ、そのうえで人間の存在意味を認め、論じようとするのが「実存主義」思想である。「何のために生きているのか?」についての意味づけは個々になされる。「この世に尽くすため」との明確な理由もあれば、「死なないから生きている」などもある。

結局、「人間は幸福を目的とする」に行きつくが、自分は安吾のいう、「生ききることが生きる目的」が添う。お金を貯めて世界を巡りたい、100人の美女と寝たい、一篇の小説を書いてみたいなど、個々の目的は様々あるが、「死ぬまで生きよう」という表題のごとく、死ぬまで生きるのが生きる目的といえば聞こえがいい。したがって、死後においては何の目的も願いも要求もない。

「何のために…」という言葉の、「ため」は、自分自身のなかから目的として生み出すことは可能だ。立派なもの、大きなもの、小さなもの、どんなものであれ、無目的であるよりは立派に聞こえるが、毎日そんなことを考えて人間は生きてはいない。自分はブログの表題を考える時、「死ぬまで生きる」ことは大切なことだと思い、だから、「生きよう」と声掛けをしたのかも知れない。

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林田は、「人間は何のために生きているのか」についてこう述べる。「人間が生きているということは、理屈ではなく事実であるとするなら、私たちはただ、この人生をどう生きるかということだけを考えればよい。生命というおごそかな事実が、理屈抜きにただ生きることだけを要求している」。理屈と膏薬は股にもどこにでもつくが、「生きることだけが生きる目的」に理屈はない。

若き頃は単純なことですら人によって意見が違うのが不思議だった。ゆえに論じ、話し合い、時に格闘しあったが、思えば一切が若さゆえである。すべてのことが肥やしとなった今、議論など望まない。運命論者や宗教者らと噛み合わぬ意見を戦わせたりもしたのが懐かしい。「運や不運というのは我々が作るもの」という考えだけは一貫して揺るがなかった。それこそが運命というものだと。

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