Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

賢人の存在意義 ③

$
0
0
確かに加藤の言うとおり、"子どもは自分の世話をしてくれる他者を選べない"。親を断ち切ろうとするなら、自分のこと一切を自分でやればいい。「母には一切の頼み事をしなかった当時の心情はハッキリ覚えている。「この人は鬼だ」子ども心に感じたことだ。母親には何も望まない、要求しない、頼まない、口も利かない。鬼だと思えばそんなことは何も難しくなくやれた。

加藤はまた、「親は卑怯」と述べるものの解決策を記していない。「絶対的強者の立場にある母が、その子どもから自分の基盤なき誇り高きイメージを引き出すのは卑怯である。子どもにとって母親は最も重要な他者である」。と追記しているに過ぎない。五賢人のなかで他の四人に比べ、どちらかといえば加藤は観念的である。分析はすれども解決のための案のなさが加藤の特徴であった。

イメージ 1

堀秀彦、坂口安吾を賢人とする理由を述べた。亀井勝一郎、林田茂雄、加藤諦三ら三人についても述べる予定だが、賢人はあくまで主観である。彼らは賢人であるが聖人ではない。堀は最愛の妻に他界されて生きるすべを失ったといい、妻に先立たれるとまるで母を亡くした乳飲み子のようにうろたえる夫は、どれだけ妻に依存していたかを考えれば、男にとって妻は大いなる拠り所である。

夫に先立たれた妻のハツラツさを見るに、女は一人でへいちゃら生きていく。この違いは本質的な生命力の差か。男もそうあるためには、「おい風呂!」、「おい、メシ!」、「おい靴下!」などの依存を止めて自分のことは自分やる。堀は明治生まれの旧式人間だから、妻の内助や気配りがあった。「自分は恐妻家」といいながらも昔の女性には、「男は兵隊さん」として讃え、一目置く潜在意識があった。

「あなたの生活信条は何ですか?」と聞かれて、「後悔しないこと」答えていた頃があった。今はそんなことも聞かれないし、聞かれても、「食って寝ること」くらいしかいわない。入社面接ならともかく、他人に生活信条をいったところで屁にもならず、得るものもない。そもそも生活信条って本当にあるのか?カルタに、「後悔先に立たず」とあったが、子どもにその意味は分からなかった。

が、意味を知って好きな言葉の一つとなったのは事実。自分が愚かだと悟り、愚かな自分であるがゆえに、後悔したからといって立ち直るすべはないと気づいたこともあったろうか。人はなぜ後悔するのか?分からないが、後悔とは祈りに似た愚か者の情熱なのかも知れない。神仏と戦う無神論者となり、祈りに似た後悔をあまりしなくなった。宮本武蔵は、「我事に於て後悔せず」と残している。

イメージ 2

剣豪武蔵というが、武蔵の思いはウジウジ後悔する自分から生まれたものである。信条というわけではないが、他人の悪口が好きでない。欠点をいうことはあるが、良いところを悪くは見ないでいる。良いところは良いからだ。「あいつにはついていけない」などという奴は結構いた。記憶の限り自分はこの言葉を一度も言ったことはないが、人はこの言葉を目くじら立てていったりした。

はやい話が悪口である。批判を超えた言葉と感じるし、最大級の非難であり悪口である。自分がこの言葉を好まない理由は、そんなこと思うなら、「ついていかねばいいだろ」と率直に思うからだ。物貰いや乞食ではあるまいに、ついていく理由はなかろう。したがってこういう言い方の裏には、恨み・つらみがある。考えてみれば面白い悪口言葉だなと思ってしまう。

一度だけ、「だったらついていかねばいいんじゃないか?」と茶化したことがあった。相手の女はキョトンとし、「そんな意味じゃないんだけど…」のような返答に困った顔をしていた。離婚を切り出す妻が夫に、「もうあなたにはついていけない」というのを映画かドラマで見たことがあるが、強烈な人格否定、存在否定であって、いわれた夫はかなり自尊心が傷つくのでは?

「もう一度やり直そう」みたいなことを夫は言ったが、妻の最終的な引導に対する言葉に対してはいまいち迫力がない。「やっていけない」という相手と、「やっていく」のは所詮無理だろう。だったら、「そうか、分かった!」というのが潔さではないか。「オネガイ、もう一度~」などと、こんな惨めな言葉は自分にはない。「据え膳食わぬは男の恥」がまかり通った世代でもある。

イメージ 3

こういう意識で生きてきた自分だから、「据え膳」食わされた経験はない。こういう意識とは、男は能動、女は受動の意識。男のバカさに我慢を重ねてた妻はいる。それで発した最後通告に、「もう一度やり直そう」という男の惨めったらしさはなかろう。が、最後通告風に思わせる意図なら効き目もあろうが、実体としては妻の毅然とした態度か半分演技かにもよる。

「母と私は憎しみによってつながっていた」と安吾の自伝にあるが、最初は愛に、中途から憎しみによってつながったままの夫婦は決して少なくはない。血肉を分けた親子と全くのアカの他人の夫婦とでは大きく違うものだ。憎しみあう夫婦という経験はないが、こんにちの社会情勢なら離婚は簡単だ。むかしは、「子どもを片親にすべきでない」という抑止力もあったが、現代にはそれがない。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>