我々愚者にとって賢者がなぜ必要であるかを、観念性を抜きに現実的に眺めて思考をすれば、賢者の影響を受けるのとそうでないのとでは、人間は大きく変わってくる。亀井勝一郎は自分が賢者の代表とする人物だが、普通の子どもに生まれ育った。彼はこんな言葉を置いている。「自分の半生を顧みて、なるほど、これが人生というものであろうかと、はっきり感じられたものはある。
それは、私を一人間として育ててくれたもの、現に育ててくれつつあるその条件である。私は自分一個の力で生きているわけではなく、自力で成長しているわけでもない。書物を通して接したさまざまの先師、あついは温存している先輩友人の導きによって人間として成ってきたわけで…」と、亀井の言葉を借りるまでもなく、誰もがみなこのような形で自己を育てきたたはずである。
他者からの影響なしで人間が育つことはなかろう。食って出して寝れば人の体は成長するが、「人間」としての心は育たない。前回しきりに、「教養」という言葉を唱えてみたが、「人間が人間になる」ということは、教養を身につけることではないかと思う。物事の道理理解も教養である。「阿吽の呼吸」などというが、人と人の結びつきは余程の洞察力があるならともかく、言葉をおいてない。
だから、言葉の質も大事となる。コミュニケーションをとるうえで言葉の量は重要でないのは、大人と子どもの会話を見れば明らかだ。しかし、言葉で言い表し切れない点には洞察が必要となる。洞察力を鍛え高めるのも教養で、細かく推量、推察することで他者への理解もなされよう。相手の心が見えれば、それに連動して愛情も湧いてくる。人と人はそういうもので結びつくもの。
“言葉遣いは教養のあらわれ”といったが、同時に表現しきれない沈黙に対する思いやりにおいてもあらわれるもの。教養のある人に比べて教養なき人は言葉遣いが粗雑で、独断的で、他人を洞察する思いやりが感じられない。一人で生きるのと社会(のなか)で生きるのは別だ。事あるごとに自分が勝利者のように振舞う人しかり。教養ある人は決してこのようなことはしない。
言葉遣いはまた、教養ある女性の所作においてもっとも分かりやすい。率直でありながらも気品があり、しかもとってつけたような不自然な美辞麗句がない。意図的に得る、なされるものを人為というが、人の所作から滲み出る教養を感じるように、教養も人為で身につけるものだ。かつて、「清純派女優」に多くの男たちは憧れたものだが、こんにちではあまり聞かれない。
清純派女優がいなくなったというより、清純派女優という幻影に男どもが踊らされていたのだろう。清純を演じることが時代の求める女優人気のバロメータであり、会社も清純なる振舞いを演じさせた。昨今はそういう価値観が希薄になったことで、清純派という暖簾が不要になった。清純派女優というのは肩書に過ぎなかったが、そうとは知らず我々は彼女たちに清純の夢を見た。
月光仮面などの正義のヒーローしかり。子どもは純粋だから、正義と悪の戦いにおいて、正義は必ず勝つと信じ、作り手もその期待に応えた。いわゆる、「勧善懲悪」ものである。年端もいかぬ子どもはそれでよいが、思春期になって自我が芽生えると、本当の物、真実を求めるようになる。月光仮面やアトムが虚実だと分かり、何が真実かを模索する段階で賢者の書籍が必要となる。
それが坂口安吾の『堕落論』であり、堀秀彦の『愛と孤独の世界』であったり、林田茂雄の『人生の疑問』、亀井勝一郎の『青春について』や、加藤諦三の『若者の哲学』であった。我々は学校で、「人間は堕落してはいけない」と教えられ、観念として脳にインプットされいた。しかし安吾は、「堕落しろ、堕落しなけれな人間は救われない」というのだから、頭がおかしくなって当然だ。
亀井勝一郎をして“日本一の読書家”というのは、まんざら嘘でもなさそうで、彼は世界の思想に精通した賢人である。東大で美術を学びつつ、マルクス主義運動に身を投じたものの、程なく離脱した理由はさまざまあった。だが決定的だったのは、「政治運動」だけでは、当時の日本社会を是正・超克することはできないと確信したからである。以下は亀井についてのあるエピソード。
亀井は若者に愛されたが、それは亀井が若者を愛していたからだ。京都大学の学長が卒業式の祝辞で、「むやみに群れるなかれ。孤立を怖れぬ強い精神力を身につけて欲しい」と述べていた。これは亀井、「強い精神ほど孤立する」の引用だろう。ショーペン・ハウエルは、「孤独は優れた精神の持ち主の運命である」といい、 安吾は、「すぐれた魂ほど、大きく悩む」とした。
加藤諦三はこう記している。「僕には、母親以上に醜いものを考えつかない。僕の想像し得る限りにおいて、この世で最も醜いのが母親である。人質をとって金を要求するハイジャック犯以上に醜いのではないか。親が卑怯なのは、子どもは自分の世話をしてくれる他者を選択できないから、親のいうことを聞かざるを得ない。母親に叱られた子どもは、泣いても母親のところに行くしかない」。