「自らの足で立つ」ことを若き日に自らに課した。が、自らの足で立つためには精神的な土台が必要となる。頑健な体をもっても精神が未熟では、「独活(うど)の大木」だ。柔らくて弱い材である独活の木は、大きくなっても建築資材に使えない。それを人間に例えて、「役立たず者」をいうようになった。だから賢人の著作を読むことで自己否定から始める必要を感じたのだった。
若いころから自己肯定だけに勤しんだものは視野が狭く、己のつたない考えに頭が充満しており、いい年になってもそこから抜け出せなくなる。バカが生涯バカなままなのは、若い愚かな時期を、「こんなんではダメだ」という自覚をもたなかったからではないか。自らに凝り固まった者は露骨にいうと、自ら神のごとく正しいと思い上がり、他人の意見を耳に入れようとしない。
我々は愚かだから賢者を必要とする。自ら考え、自らの足で立つためには賢者の支えが必要になる。さまざまな賢者にはさまざまの著作があり、その研ぎ澄まされた思考はお金を出して買い求める充分の価値がある。人生の享楽には様々あるが、実用的な観点も含めて読書というのは、もっとも確実な幸福といえるだろう。自分を取り上げてくれるのは古い言葉でいえば産婆である。
秀逸なる、「自己」を生まれさせてくれるのは賢者たちの書物である。身近に影響を受ける人もないではないが、聖書や仏法などに触れると同様に賢者の言葉は身近な人たちのレベルを圧倒する。読書の最終的な目標というのは、賢者の思考や思想に触れ、言葉を追いながら噛みしめることによって、自らが自らを理想の人間像として見出すこと。これは青春時代に限ったことではない。
「よりよい人間になりたい」の気持ちは、「道」を求める志が失われていないことになる。高校の古典の授業で習った、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉がなぜか不思議だった。「せっかくよい教えに触れたというのに、人生で実践する間もなくその日の夕に死んでいいでは、知った意味がないではないか?」という疑問である。実践してこその道ではないのか?
無知で若き自分は、「自分の正しい生き方についての答えは、それほど簡単には出るものではない」という本来の意味を知らないでいた。善い言葉の羅列は聖書にも仏典にも賢者の著書などにわんさと記されている。「朝に道を聞かば夕に死すとも可」は比喩であって、聞く=知る=実践の体現を示している。50年かかって身につけるということなら、「夕」とは50年という意味であろう。
目指して努力をすれば、人間は格調高い人間像を目指すことができるということだ。日本人は戦後70余年を資本主義という実利優先の社会で生きてきた。故にか、「物としての命」を優先し、命に占める心の在り方を低く見る傾向にあった。生き方の質より、命の長さを尊重する傾向にある。そうならないために、賢者の思想に触れることで、生き方の水準を高める必要性がある。
端的にいうと、信仰とはそういうものだし読書もそうであるが、注意すべきは信仰の効果や読書の効果を焦ってはならないということ。何事も、「レンジでチン!」の時代であるが、人間は一朝一夕とはいかない。「朝に、夕に」という言い方は極めて短い時間の用例のようだが、実は物事の収穫の難しさを表している。「朝に道を~夕べに死す」は、人間の一生の時間ではないかと。
未熟な人間が精神形成のために読書をする。そのためには質のよい本がよかろう。しかしそれだけでは息も詰まろうし、、読書は多方面においては娯楽であることも事実。最上の書物は例外なく難しく、求道の志の深き人ほど真剣になるが、あまり深刻になりすぎると堅物人間になることもあり得る。そのために漫画もあり、艶本もある。趣味の本もしかり。
「人間は人間にならねばならない」といってもその実難しい。ボーボワール女史の、「女は女に生まれない。女になる」も同様。人間は人間に生まれ、女であるのは女に生まれたからだが、こうした比喩を理解するのも教養であろう。教養という言葉は様々に解されるが、教養のもっとも端的なあらわれは、その人の言葉遣いに見られる。「言葉は精神の脈拍」という言葉を知って納得。
その人が言語表現にどの程度に心を細やかに使っているか、そのことだけである程度の精神の在り処が分かろう。学問がある、読書量も多くて知識もある、それも大切だが、そういったものが日ごろどのように消化されているかは、日常の言葉遣いにあらわれる。人の心の許容量というのも人間の質差を示すもの。キャパともいい、懐の大きさともいうが、これら人によって大きく異なる。
「心は広くもつべし」を、知識として知るだけで教養である。人の言動にいちいち噛み付く人は自信がなさの現れというのが経験則にある。「自分が正しい」と思うのはいいが、「自分だけが正しい」と思うのはどうだろう。斯くの人間に人心は集まらない。どんなに偉くなろうと、どんなにお金があろうと、どんなに頭がよかろうと、答えは人の数だけあることを知るのも教養か。