オギャーと生まれた時から偉人や賢人などいない。誰もが凡人であろう。同じように生まれながらに悪人はいない。善人もいない。「すべては、創造主の手を離れる時は善であり、すべては人間の手のなかで悪くなる」と、これはルソーの『エミール』の冒頭文だ。この場合の、「善」とは善人ではなく、人間の善性のことをいう。善性とは何?善とか善性は多種多様である。
例えばプラトンは親切とか人助けとかといった、我々が思うような善をそれほど重視をしていず、かなり違った解釈をしている。プラトンのいう善とは、「存在するものの存続の原因。万物が自己の目標としてもっている元のもの、それによって何を選択すべきか決定される元のもの」と定義した。プラトンのいうところの、「善」はかなり、「神」に近い概念といえる。
これが有名なプラトン哲学にいう、「イデア」とされている。プラトンという人は偉大な哲学者であるが、あるとき、「回顧録を残しませんか?」と聞かれたとき、「ひとまず名前をあげることが必要」と答えた。彼明敏であの明敏さが伝わってくる。いうなれば賢い。要するに彼は名誉欲にかられた人物ではなく、彼の本心とは、名を残せば多くの回顧録を残したということになる。
自分の歴史をのべることが名前を知られることなどと思ってはいず、自分の歴史や自省録を書き残せる人になりたいと思っていた。いくら書いても読まれなければ何もならない。功名心や虚栄心にとらわれることなく、良いものを書けば多くの信奉者ができるのはブログも同じことだ。義理や付き合いで読まれるものと、そういうものを充て込まないものとでは本質的に違いがある。
思うに回顧録というものは、自分のために書くものではないのか?何かを残しておきたいという自然な内なる情動から湧き出るものなのだろう。西洋哲学の善とは別の我々の宗教である仏教は、善をどのように教えているのかだが、いうならば仏教は「善のすすめ」である。そこで仏教のいう善とは、「善因善果の因果の道理によって、「幸せな運命を生み出す行い」のことをいう。
仏陀はそのような善を、七千余巻の一切経に、具体的にたくさん説いており、これを「諸善万行」という。これどあっては読む者とて大変であり、目移りもするばかりで結局は行わない。そこで仏陀はあらゆる善を6つにまとめて、「六波羅蜜」を教えている。あまり詳しくないので受け売り程度にしておくが、自分は仏教徒とではない。浄土真宗の寺に墓はあるが、参らない法要もしない。
理由は単純、故人が墓参りを喜ばない、自分が死んでも墓参りを喜ばない。それはさて仏教の、「六波羅蜜(六度万行)」の①布施、②持戒、③忍辱、④精進、⑤禅定、⑥智慧については仏教用語ではなく、①親切、②言行一致、③忍耐、④努力、⑤反省、⑥修養と普通の言葉で理解をしている。仏教徒でもなく同じ意味ならこれで十分、仏陀の教えであれどなかれど関係ない。
宗教には無縁だが凡人に生まれた以上、自らを教育によって高めなければならない。そのために選んだのが賢者という人たちの書籍である。自己教育も含めた人間が教育によって形成陶冶されるのは当然の事で、昨今の教育の意味とはちがって本来的な教育の目的は、“人間を人間たらしめること”。それにしても昨今の学力偏重主義が、結果的によい社会になった形跡は何も感じられない。
斯くいう自分でさえ、人間の欲望に妨げられてか、対象は改善された形跡は認められるが、人間の向上というのは大変なことであり、このまま改善だけで生涯を終えそうな気もする。何事においても一流になるのは本当に大変な事だし、一流を目指すなどはさらさらないし、ならばそれはそれでいいではないかと。とにかくある時期を通じて自分と闘ったのは事実である。
そういえば自分が人生の道しるべと掲げる堀秀彦、坂口安吾、林田茂雄、亀井勝一郎、加藤諦三ら五賢人は、堀と坂口でとん挫したままだから、あとの三人への思いや所感を残しておこう。12月15日までの命だが、書くこと即ち学ぶこと、学び返すこと。高齢者には反復も大事である。堀は、「僕が生きてる意味だって?むろん、そんなものはありはしない。謙遜なんかでいっていない」。
と、彼もこういう人だ。生きる意味などと、高尚なお題目を掲げずとも、今こうして日々を生きてることが、自分自身にとってどういう意味をもっているか、ということになる。それを正直に答えるなら、飲んだり(お酒ではなく)、食ったり、寝たり起きたり、どこかに移動したり、テレビを見たり歩いたり、本を読んだり趣味に興じたり、そんなことが生きてる証ではないか。
今までもそして今後もそれ以外にやりようがない。分相応なことをしてるつもりはないが、「分」ということを考えたことはない。ただただ、いろいろなことをエンジョイするが、エンジョイするために生きているのか、生きているからエンジョイするのか、正直分からない。どちらでもあるようだ。「生きる意味などない」の持論保有者として、今後も無意味な生を続けていくだろう。