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とある老爺の随想 ④

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大層なことではないが最近ちょっとばかり驚いたことがある。先週11日にブログを書き忘れたことを翌日まで気づかず、「あっ!」と驚いた。こんなことを忘れるようになったのも年なのかなと愕然。やろうと決めたことをすっかり忘れるなどはこれまでになく、自信をもっていた。確かに今回は重要なことがあったが、書く時間がないわけではないし、忘れているのだからどうにもならない。

「人を判断することの難しさ」という記事を数日前に書く。書いたものの、まったく内容を覚えていない。戻って読むと、こんなことを考えていたのか?本当に自分が書いたのか?である。その日のことはその日のこと、別の日には別の考えになるようだ。誰にもこいうことはあろう。「これは本当に自分の文章なのか?確かに筆跡は自分のようだ」が、最近の書き物は自筆によらない。

人間は多面的で書くことは尽きない。「書くことがない」という人がいるが何で?書くことの「ある・なし」は人間のどういう差か?山の頂上に登るにしても登山口はあちこちある。一つの結論に到達するに方法論はさまざまある。将棋の次の一手に多くの候補手があることも同じ類といえるが、藤井聡太の出現によって、100が500に500が1000になったのを棋士たちは知ることになる。

古市憲寿という社会学者が若者の代表のようにいわれるが、老齢者から見ると彼はパープー(広島弁)。メディアが彼を重宝する理由は、色物としての面白さ、変人格の代表だろう。世間ずれたことをいい、空気を読まない発言もユニークと指摘されるが、自分の殻に強固に埋没した人間である。空気を読まないというより、読めない、読む気がなさそうだ。友人の輪にも入らず独尊に生きる。


空気を読む読まないは状況判断に関連する。状況判断ナシに生きる人間は、他人のことなど知ったことではない。自分の若き時代もその傾向は強かったように思うが、最近の若者は、状況判断の必要性すらも感じないのか?これは強さかパープーかどちらかだ。どう生きようと人の生はその人のもの。どのような人間関係であれ、要は困るか困らないかで、困らないなら変える必要はない。

「バカに寄り添うな」、「バカに同意するな」というのは一般的なバカ対処法だが、「バカにはバカに沿っておけ、彼が知恵者と誤認しないために」。これは古代バビロニアの、「賢者アヒカルの格言」。時たまこれを利用する。バカは豚に真珠だから、真っ当なことを分からせようと骨を折っても無駄。相手にしないか、何事に対しても、「うん、うん」と同意するか、どちらかである。

この二つ対処はできる。血気盛んな若者はこういう境地に至れない。負けたくない、他人に遅れをとりたくないとの闘争心に支配をされて、ついつい激論に走りやすい。それから比べて老齢期というのは何とも省エネの生き方である。「沈黙は金、雄弁は銀」の大事さが分かるようにもなる。何事も、「分からない」、「判らない」、「解からない」、それが若さというものだ。

この一点だけでもバカ。最終的行き着く先が、「人のことは分からない」と、そうした視点をふまえて、「ならばどうする?」となる。妻のいうことには何であれ、「あっ、そう」の返事のみの夫のことを書いたが、現状のままの夫婦生活や家庭生活の一切を肯定し、これ以上どうなるものでもないとの深いあきらめの境地と推察した。妻の教育を試みたものの、手に負えぬと悟ったのであろう。

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この夫は戦士のなれの果てといえよう。もはや家のなかで坐禅を組んでいるようなものだ。これをバカという者もいようが自分の考えはそうではない。同じ光景を実の父に見立てると、母を柱に縛り上げて押さえつけた若き日の父の悟りである。柱に縛っておかねばならぬほどの女を縄をほどいて解き放つ以上、あらゆることに耐えるだけの我慢と自覚を備えるという覚悟である。

と、バカがバカを見下してただ述べたわけではない。足手まといな人間とは付き合わぬ方がよいといったまで。「愚かなことをいったり、愚かなことを行ったりと悟ったところで何にもならない。我々が真に悟るべきは、もっとたっぷりと重たいレッスンなのだ。我々は救いようのないマヌケ以外のなにものでないということなのだから」。と、これはモンテーニュの『エセー』の記述。

人間が自分を知るべきなのは、自分にとって最大の敵は自分であるからだ。だから自分を知る者こそ賢い。人間はみな愚かでマヌケで似非(エセ)な生き物であるのを『エセー』で知ることになる。ところが、『エセー』はあまりに当たり前のことの羅列でつまらないとの批判もあるが、「ならば、人はその当たり前のことができるのか?」という批判をなぜに自分に課さないのかである。

「『エセー』がぼくに示唆したことは、“自分を質に入れない”ということだった。人間というものは、学生になれば学生になったで、仕事につけばついたで、結婚すれば結婚したで、父親になればなったで、政治家や弁護士になるとまたその分際で、その社会の全体を自分大に見たがるもの。とくに選挙に出る政治家は自分を自分大にするだけではなく、社会が自分大だと思い込む。

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つまり、“自分を質に入れよう”とする。そして、どうだ、質に入れたんだぞ、不退転の決意だぞと威張る。そんなことは滅多に成り立つはずはなく、大抵はその質を入れた質屋を太らせるだけ。モンテーニュはこのことをよく見抜いていて、どんなものにも自分を質に入れて偉がることを戒めた。そして、そこからずれる自分のほうを見つめることを勧めた」。これは松岡正剛の『エセー』観。 

「質屋」は死語だが、「質」という言葉は使われる。「こんなつまらぬ本のために大切な時間を潰すのはバカげていますよ」とモンテーニュはいっているが、こんなつまらぬ本を読む以外に価値ある時間があればこそだ。それは読んでみて感じること。決して物知りになるための本ではなく、『エセー』には、人が人生にどう向き合って生きるかについての暗示が記されている。

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