誰に対しても真実を述べることは、「万人に対する人間の形式的な義務」としたカントは、虚言を、「人間性一般に対して加えられる不正」と定義した。人間愛から嘘をつくことすらカントは認めない。カントにすれば、親切の義務における人間愛に依拠して嘘を肯定するにせよ、否定するにせよ、嘘をつく権利について論ずるということは、そもそもあり得ないことなのである。
果たして我々は嘘をつかないという真実性の義務を守りつつ、困窮している人間を救うことができるのか。殺人犯に追われて、「かくまってくれ」と頼む友人を、「かくまってない」と嘘をつくのは間違いなのか。答えは一つ、カントにしてみれば正しいということに過ぎない。なぜならカントの道徳哲学は、この世で起こるありとあらゆる問題や事例に対応していないからだ。
道徳法則は何ら現実的な解決法を教えない。能書きを垂れる人間はこの世に腐るほど存在する。道徳的義務というのを否定はしないが、道徳的義務を現実に実現するためには、現実について聡明でなくてはならず、目的実現のための手段を命ずるのは、各人個々の経験によって研ぎ澄まされた判断力に任されざるを得ないのではないか。「言うは易し行いは難し」と古人は教えている。
「習うより慣れろ」、「経験は学問にまさる」、「頭でっかち尻すぼみ」、「竜頭蛇尾」などの類似語が浮かぶが、「馬には乗ってみよ人には添うてみよ」もそうであろう。意中の彼女が見つかったとはしゃぐ男がいた。絶品の美女で結婚相手に相応しいと触れ回っている。そこでhanshirouの一言、「女には乗ってみよほとには触れてみよ」。※「ほと」を知りたいなら検索を…
老子十九章にはもこのようにある。「聖を絶ち智を棄つれば、民の利百倍す。仁を絶ち義を棄つれば、民孝慈に復る。功を絶ち利を棄つれば、盗賊有ること無し」。若いころは抵抗があったこの章であるが、今なら何ら不足はない。聖智、仁義、功利は、人の功名心を誘発し、そのことで社会に悪影響を及ぼしかねない。つづく二十章においても、「学を絶てば憂い無し」と述べている。
確かに学問で種々の知識を得るが、同時にこれまでは何とも思わなかったことが悪く見えたり、物足りなく思えるものが増えて、不安や不満が増大することにもなる。これも抵抗のある言葉ではあるが、学を志し、知識を得るそのことは間違いではない。したがって同二十四章の、「跂(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず」からその真意を理解・実践すればよかろう。
善い教え、良い言葉は山程ある。知るだけでは知識の増加でしかなく、実践がものをいう。行動とは、行動すべきと思ってすぐさま行動するのではない。行動すべきと分かっている場合に我々は行動せねばならぬ、あるいは行動せずにはおれない状況に自分を追い込み行動する、かのようである。真に行動する人の行動論理というのはそういうものだ。行動せぬものには分かるまい。
「苦しみを怖れるものは、その恐怖だけですでに苦しんでいる」。「いつかできることはすべて、今日でもできる。モンテーニュの言葉だが、「今日の仕事を明日に延ばすな」の慣用句を上記のように置き換えたのが面白い。何事も先送りにして行動しない人間は多いが、そうであるなら宿題が溜まるばかりで、窮する人間になりはしないか?身軽な人間は仕事が速く、よって解決も速い。
「明日」、「今度」、「いつか」という環境条件は、己の心を決定的に支配し命令するが、こういう人は、「命令するように感じたい」のであろう。己の心を己の意図する方向へ持っていくために、自然と編み出される都合のようである。ありもしない都合を自らに課すという人間の無意識の作為に他ならない。「決断」というのは慣れぬ人には拷問だが、慣れた者には屁のごときである。
「人間は何だってできるもの」というのが常に頭にあるから、しょうもないようなことに躊躇うこともないし、大事においても「決断」というのは刺激であり快感のようなもの。「明日はどうでも行かなきゃ」、「今回は何が何でもやってしまわなきゃ」などの言い方をしばしば耳にするが、こういう言い方は自分にすればつまらない。何がつまらないかといって、消極さがつまらない。
yahoo blog 終了の知らせを見た時も、何も迷わず躊躇わず、「当たり前だ、人はいつか死ぬ」と瞬時に感じた。恋の終りに躊躇ったこともない。何事も、「終り」というのは必然、それを決めるのは、「時期」という天の声。「終りは始まりの始め」とはいったもの。定めに執着することなどない。「後生だから…」は自分にとっての禁句なのか?将棋も人生も後手を引くのはつまらない。
「何でだ?何でそうなる?」というのを発することはない。他人の決めたことに文句をいっても始まらない。「自分ならこうする」は可能だが、人の言動に衝立は建てられないからだ。物々文句をいう前に、綺麗に受け入れることなら、何事においても積極的となり得る。「潔さ」これが自分の理想とし標榜する男の定義で、後くさりもしこりも残さない生き方に通じると確信する。