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とある老爺の随想 ②

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モンテーニュづいている。彼はなぜ、「読者よ、これは正直一途の書物である」の言葉を置いたのか?ユマニスト(人文主義者)の彼は、ルネサンス期にあって、文学・思想の面でユマニスムに支えられ、それらと表裏をなすものであった。彼が『エセー』を書き始めたのは39歳ころとされているが、これは引用・利用された書物を彼が読んだ年代から勘案した結果による推定である。

言葉や文字で何かを伝えたい欲求から、人は語り、人は書く。その前に、なぜ「言葉」が存在するのか?聖書の、「はじめに言葉があった」は、「なぜ?」を解明する論理ではない。何事も神の命としておけば、それ以上に詮索する必要もなく、だから神は便利な存在であろう。そんなものでは納得できない自分は、なぜ言葉の発生がなされたかを論理的に考えてみる。

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地球上に存在する多くの生物のなかで、いかなる理由、いかなる事情によって人間の祖先となったものが出現したか。それこそ言葉の発生といえなくもない。他の生物には発生しない言葉が、人間の祖先にのみつくりだされ、発達したのには必然的な理由があり、言葉が初めてつくり出されるにあたって以下のことが想像できる。①その事に意欲を持った仲間がいなければならない。

②その仲間である者は、発声することを好み、発声ができるものでなければならない。③その仲間は非常に仲良しで、しかも平等で同情心がよく働いていなければならない。平等で対等であるから意思を伝えようとするのは、現在も昔も変わらぬ言葉のやりとりである。社会のシステムができれば上位者・下位者は必要性からつくられるが、原始社会で上・下というのは親子兄弟だけだったろうか。

対等だから人は争い、だから人間を束ねる長が必要となる。現在の隣組の長、さらには市区町村の長から、県の長、国の長へ社会システムが出来上がった。しかし、「万物は平等である」というのは天地自然における根本原則である。こんにちに文化を生んだものが人間の知恵であるのはいうまでもないが、その知恵を生んだ母なるものこそ言葉であろう。言葉が万物を生んだともいえる。

言葉は便利だが、言葉は災いも起こす。言葉は正しく上手に使われなければならない。言葉を持たないイヌやネコの生活は、あくあで想像だが、言葉がなくとも何の不便もなさそうだ。彼らは一体にどのような思いで生きているのか不思議であり興味が堪えない。モンテーニュが「読者よ、これは正直一途の書物である」とあえて述べている『エセー』という著物は、本当にそうなのだろうか?

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自分はこのように考えた。もし、自分が始めようとするブログの冒頭に、「これは正直一途の書き物である」と書くのは非常に抵抗があるが、書いた以上はそうすべきである。しかし、それが正直であるかないかの判断は自らに委ねられるもので、正直であるか否かは自身のみが知る。言葉は時に嘘も交える。「真実を書きました」という本が真実であることなどあり得ない。それが現代人の判断である。

「人間がウソをつかないでいれるか」という命題には、「人間は不確実であるがゆえに確実である」というパラドクスがある。理想主義者は理想が広大なあまり、しばしばに言葉に酔う。際たるものが観念論者である。観念論とは、哲学における、「イデアリスム」の語訳が一致せず、唯心論(存在論)、観念論(認識論)、理想主義(倫理学説)と訳し分けられているのを、便宜的に観念論とする。

カントはドイツ観念論哲学の代表。彼は、「人はいかなる場合においても嘘をついてはいけない。これは誰もが無条件に従うべき絶対的な掟」とした。こんなことは当時も今も批判はあるが、観念論では以下のように説明可能となる。「誰も相手のいうことを信用しなくなり、誰かと約束を交わすこともしなくなる。しかし、そうなれば約束を破ることさえできなくなる。こういう行動原則は人間を自己矛盾に陥らせる」。

したがって普遍的な、「道徳法則」に合致しない。カントの観念論に対し、フランスの哲学者コンスタンはこう批判した。「Aの友人Bが殺人者に追われてA氏宅に「かくまってくれ」と逃げ込んだ。殺人者はA宅にやってきて、「Bはここにいないか」とAに尋ねたとき、カントの理屈ではAは正直にBの差し出さねばならなくなる。このAの行為はカントの論理には沿っているが、果たして道徳に正しいことなのか?

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コンスタンは、「我々には真実を述べる義務はあるが、それはあくまでも、『真実を知る権利』を持つ人に対してで、誰も他人に損害を与えるような真実に対して、『知る権利』を持たないように、我々は殺人者に対して、『真実を述べる義務』はない」とした。カントはムキになって反論した。「『正直であれ』というのは、神聖なる無条件の命令で、真実を述べる義務はどんな場合にも妥当する無条件の義務である」。

これはもう信念の押し売りで、カントはこんな屁理屈も述べた。「Aがここにはいないと嘘をいっても、BがAの家を抜け出したときに殺人者に出くわして殺されることだってある。反対にAが『Bはここにいる』と真実を述べ、殺人者が家のなかでBを探しているうちに駆けつけた近所の人たちに捕らえられ警察に突き出すこともある。要するに、真実を述べることによってどういう結果を招くかは偶然によるのだ」。

カントの苦し紛れさをみても、観念論は現実に即さぬ空理空論が多い。嘘をいうなと命ずるより、嘘をついた人間の動向や顛末の方が人間的興味をそそられる。「道徳の掟は神聖で、神聖な掟を守るために人が死んでもかまわない」との論理は、ナチスやオウム真理教の論理と何ら変わらない。世の中は嘘なしでは生きて行けないようになっており、その限度を知ることが大事かと。

何のために嘘をいい、嘘を書く?おそらくモンテーニュ自身、自己の許容限度をふまえて書いたものと察する。判断力はあらゆる事柄に向けられるもの、皆目分からないような事柄でさえも、自身の能力的限界に挑戦し、判断力を試みなければならない。自分の背丈以上のことをいってみても、それ以上の先に進めないのなら、それをしないというのも判断力の効能ではないか。

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