随想とは、書き手の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文で随筆ともいう。近年はエッセイという語句で馴染んでいるが、エッセイともエッセー(仏: essai, 英: essay)ともいい、このジャンルの先駆者がモンテーニュ(ミシェル・ド・モンテーニュ:1533年2月28日 - 1592年9月13日)である。彼には哲学者、モラリスト、懐疑論者の肩書がある。
彼の主著『エセー』(『随想録』)は、人間を洞察し、人間活動の場に立ち会う彼の鋭利なまなざしには驚嘆するしかない。観念を排除しリアルな視点で書かれた『エセー』は、誰が目にしても人生の書として奥深いものとなるであろう。それほどに人間の生き方の現実に即している。いささか烏滸がましいが、自分も彼のような、あるいは坂口安吾のような、主観的且つ自由な生き方の模倣を心がけている。
あえてテーマは選ばず、選んだとしても硬直的にならず、自身の能力の限界を測りつつ自由な歩みを試みてきたが、それにはモンテーニュの影響は少なからずあった。『エセー』がいかに自由度の高いものであるか、文中の言葉から感じられる。1580年出版時の直前に書かれたと思われる、「読者へ」と題された序文を見るだけで、彼が気取らず驕らず高尚ぶったりもなく本を書こうとした意図が分かる。
「読者よ、これは正直一途の書物である。(中略) もし世間の好評を求めるのなら私はもっと装いを凝らし、慎重な歩みで姿を表したことだろう。私は単純な、自然な、平常の、気取りや技巧のない自分を見てもらいたい。というのは私が描くのは私自身だからである。(中略) 読者よ、このように私というものが私の書物の題材なのだ。こんなにつまらぬ、虚しい主題の為に君の時間を費やすのは道理に合わぬことだ。ではご機嫌よう。」
「文は人なり」というが、こういう記述は人柄であろう。彼はボルドー市長を2期4年やったが、職に就くと同時に自身に忠実に正直に自分がどんな人間かを説明した。「記憶力もなく、注意力もなく、経験もなく、活力もないが、一方、憎しみもなく、野心もなく、吝嗇もなく、乱暴なところもない。私の働きに何を期待すべきじゃを皆に知ってもらい、分かってもらうためである」。彼はやはりこういう人なのだ。
友人として語り合いたいタイプの人間と感じる。飾らぬ人からは得るものが多い。逆説的な言い方だが、「何も得ないという点においてそれに勝る得るものはない」。人柄という自然の贈り物はそういうものだ。「私が書物を作ったのではなく、書物が私を作ったのである」という彼の言葉にも誠実さや人間味が感じられる。いかに人が神のような物言いをしようとも、人は神にはなれない、近づくこともできない。
聖人のような言葉を並べたところで誰が聖人となり得ようか。モンテーニュは、『エセー』について、「純粋に自身の生来の能力の試しである」と述べているが、フランス語のessaiの本来的意味とは、「試み」や「企て」ということらしい。「書物が自分を作った」と彼がいうように、自身の能力を試すためにモンテーニュは『エセー』を書いた。彼のその言葉の真実性を現すのが以下の言葉であろう。
「たとえ誰も読んでくれなくとも、私がこんなに多くの閑暇を、こんなに有益な愉快な思索に紛らわしたことが、時間の空費といえるだろうか」。「有益な愉快な思索」というところにモンテーニュの人柄が見える。自分も真面目くさった文を書くが、世代観的な真面目さは否めないとして、本性は愉快で楽しいことが大好きだから、自らが笑えるような面白いことを書いたときが何より楽しく充実感がある。
「例え誰も読んでくれなくてもいい」とある。それなら何故に書くのか?それについてモンテーニュはこんな風に述べている。「私にものを書こうなどという気を起させたのは、ある憂鬱な気分、つまり、私の生来の気質とは大いに反する気分なのです」。彼はその気分を孤独の寂しさと記しており、さらには自分が何も書くべきほどのものが何もないほどに、空っぽな人間であることに気づいたといっている。
空っぽな自身を自分の前に差し出して、これを材料とも主題ともしたのだと。モンテーニュという人の自己を飾らぬ性格がこれほど伝わる言葉はない。自分のブログを書く動機というのはよく覚えている。父の死後に、自分の知らぬ父のこと、母や父と同世代周辺の人物のみが知る父の裏の顔などを、何も知らないことが悔やまれた。ならば、自分は遺書代わりの何かを残しておこう。
そういう動機で書き始めらブログも、気づけば13年6か月も経っている。自分で読むのもうっとうしいほどの量になってしまった。こんなものを子どもに残したところで、読むのもうっとうしく、そんな時間があれば別の楽しい時間を過ごせるはずだ。残そうと思って書いたものだが、今ではそんな気はなくなった。yahoo blog が終了するというのは幸便である。何事にも初めと終わりがあり、受け入れることでもある。
ものを書くことの本質的な楽しみは、書く行為そのことであって、書けばあとは残骸である。「たとえ誰も読んでくれなくとも、私がこんなに多くの閑暇を、こんなに有益な愉快な思索に紛らわしたことが時間の空費といえるだろうか」。モンテーニュの言葉に共感する。2019年12月15日までの限られた命は、「死ぬまで生きよう」の心境である。一切が消えるという象徴的な死の体現に思えてならない。