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Channel: 死ぬまで生きよう!
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死者の行く先「誰も知らない」

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いかなる人間がいかに死についての考察を加えたところで、人間は死を理解しないままに死んでいく。人間の死だからと、飛ぶ蠅や蚊をピシャリと叩き潰すと何ら変わりない死でしかない。人間の死だけが高尚であるというのは、単なる思い込みでしかなく、虫や家畜の死と同じ死であろう。多くの死についての意味付けを読み、死についての考察や高説も目にし耳にした。

死を題材にした文学作品は多い。太宰の師井伏鱒二は心中した太宰を追憶しながら、女性たちのことを書き残したのが『おんなごころ』という作品。そこにはこんな一節がある。「検視の結果によると、太宰氏の咽喉くびに紐か縄で絞めた跡が痣(あざ)になって残っていた。無理心中と認められた。しかし身投げをした両人の立場を尊重して、世間に発表することは差控えた。

そんな意味のことを、その刑事が話したそうである。これは警察官として一理ある処置法かも知れないが、私はその話を亀井君(太宰の友人亀井勝一郎)から聞かされたとき、『しまったな』と思った。『しまったな』というのは、警察の処置方法についていうのではない。私自身の迂闊であったことを『しまったな』と思ったのである」。家族ぐるみで太宰の面倒を見た井伏の後悔である。

井伏は太宰と心中した山崎富栄を避けることも含めたさまざまな悔いが、「しまったな」であった。「太宰は極めて気が弱い。某女の方でも、それを知り抜いていたことだろう」と井伏は書き添えている。「修治さんはお弱いかたなので、貴女やわたしやその他の人達にまでおつくし出来ないのです。わたしは修治さんが、好きなのでご一緒に死にます」これは太宰の妻に宛てた富栄の遺書。

イメージ 2井伏は雑誌記者の石井桃子との会話を文末に記している。「『あのころ太宰は、あなたに相当あこがれていましたね。実際、そうでした』。桃子さんは、びっくりした風で、見る見る顔を赤らめて、『あら初耳だわ』と独りごとのように言った。『おや、御存じなかったんですか。これは失礼』。『いいえ、ちっとも…。でも、あたしだったら太宰さんを死なせなかったでしょうよ』」。井伏鱒二の『おんなごころ』も太宰個人ではあるけれども、死について書かれたもの。軽いエッセイであるが、死についての記述や文学には、1954年3月ビキ二環礁でアメリカの水爆実験による死の灰を浴びた焼津マグロ漁船第五福竜丸無線課長の久保山愛吉の『死の床にて』や、67年、米国の沖縄占領とベトナム侵略に抗議して首相官邸近くの路上で焼身自殺した油比忠之進の『遺言・最後の遺書』。

生物学者朝山新一『さよなら ありがとう みんな』、作家高橋和己『死者の視野にあるもの』、詩人で雑誌編集者長田弘『青春と死について』、伊藤整『死者と生者』、椎名麟三『生と死の谷間を歩いて』、見田宗介『死者との対話』、埴谷雄高『敵と味方』、小田実『「難死」の思想』、中野好夫『夏日随想』、哲学者橋本峰雄の『焼身抗議の論理』、司馬遼太郎『観念的な文学死』などなど…

椎名麟三の『生と死の谷間を歩いて』は、「自殺未遂者訪問記』という副題もあり、「なぜ人間は自殺できるのだろう」との書き出しである。自殺は個人的なことだが、否定論・肯定論さまざまあって、「自殺は人間の特権である」といったのは古代ローマの哲学者セネカである。彼は暴君ネロ皇帝の下で政治家として活躍もしたが、ネロから処刑を言い渡され自殺をした。

処刑という暴力的な死を前に、自分で自分を殺したのは、「強制」を「自由」に変えたということにもなり、確かに人間の特権を使ったことにもなろう。我々はひとりの人の自殺を、その時その場の事情だけでみるのではなく、その人のそれまでの長い行動とのつながりのなかで見なければならない。特例もあるらしいが人間だけが自殺をするとするなら、「自殺は人間の最後の自由」といえる。

自由と死、死と自由に異論はないが、哲学者サルトルの文学的処女作『嘔吐』はどうであろう。本作品は自己の存在の無償性を自覚していく過程を、主人公の日記で連ねるという形で追い求めている。主人公のロカンタンは、30歳でありながら14400フランの年金を有し、日々1200フランの利息を受け、何の定職もなく毎日をド・ロルボンなる18世紀の陰謀家の歴史研究に時間を過ごしている。

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あり余る資産と精神的自由をもつ若き金利生活者はこんな風に書いている。「私は自由である。というのは、もはやいかなる生きる理由も私には残っていない、私の模索した生きるための理由はすべて皆逃げ去った。(中略) 私は退屈している、それだけのことだ」。あり余る自由とお金があるのを誰もが望むが、サルトルは過剰な自由と金銭を得るとこのようになるのだと…

「この自由はいささか死に似ている」というのが強烈な言葉としてとらえられている。日常において我々は、事物の本当の存在は何であるかを考えず、らだそれが何の役に立つか、どのように有効であるかだけに縛られて生きている。ロカンタンはこの功利主義を嫌うあまり、事物世界の慣習から自由になり、無為無償の生活に閉じこもってしまう。これが金利生活者の実態のようだ。

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