「死んでどうなるかは死んでみなきゃ分からない」。これが、「死とは何か?」についての正解らしい。"案ずるより産むがやすし"というように、多くのことは経験しなければ分からない。といえば、これまた安易な考えらしい。なぜなら、「経験しなくても分かること」と、「経験しても分からないこと」があるという。そこで考えてみた。「経験しなくても分かること」とは何か?
いやいや、これが実に多くあって驚く。無茶苦茶多いので状況だけ書けば、例えば恋人から、あるいは夫婦でもいいが、「〇〇しようとしたとき、××されたら、いわれたら嫌じゃないか?」。または上司や親から、「〇〇いわれれてやる気をなくすと思わないか?」などは、実際に経験しなくとも分かることで、経験することで、「やはりそうか」、「確かに腹立つ」など実感する。
人には想像力というものがある。これは秀逸な能力で、実際に経験しなくとも想像力を働かせて考えることが可能だ。電車内での痴漢被害がなくとも、えげつない痴漢に遭遇したことを想像するだけで、嫌な気分、羞恥な気持ちになるであろう。想像力はまた、被害対応にも生かされる。ま、人によってはどれほどの刺激や快感を味わえるかなどと想像する人もいるかも知れない。
一人で暗い夜道を歩くときに、もし後ろから抱きつかれるなり、何かされたらどうすべきかを歩きながら考えるという女性がいた。なかなかの危機管理意識の所有者であり、それなら咄嗟の対応も可能だろう。「具体的にどんなこと?廻し蹴りでも入れるんか?」と聞くと、「いえ、これ以上ないくらいの大声を張り上げる準備をするんです。それが一番と本に書かれていました」。
咄嗟に声を張り上げるのは無意識にだろうが、人によっては声すら発せない人もいる。自分がどちらか不明なので、出来る限りの大声を出す」のは確かによい備えで、これほど困ることはなかろう。空巣だって、人は怖いもので、だから人のいない家を探して入る。ドッキリカメラで、一人暮らしの芸人が家に帰ると知らない男がベッドにいた。その女性が張り上げた声の大きかったこと。
ところがその後がいけない。腰が抜けて歩けなくなって、床を這うしかなかったのだ。「腰が抜けるほど驚く」というが、あまりのことで立っていられなくなるようだ。経験はないが、確かに見知らぬ何者かがベッドに寝ていればそれはそれは驚くだろう。なぜなら、絶対にありえないシュチエーションだから。人は想定外のことに驚く、だからドッキリの仕掛けが成立する。
では反対に、「経験しても分からぬこと」とは何ぞ?あるだろうという信念で考えてみたが、残念ながらいくら考えても分からなかった。「経験しなくてもわかる」のが想像力なら、「経験しても分からない」は、単に鈍感なのでは?に帰結した。ようするに個々の理解力の問題であろうと。こんな奴がいた。めちゃ辛いカレーを食べてもケロっとして、「これのどこが辛いんか?」という。
これも一つの能力だろう。普通人は、「お前は舌は鈍感か?どうかしてるぜ」というが、意外や高い能力かも知れない。探せばそれに殉じたことは結構あるだろう。ところで、「死んでみなければ分からない」というが、では死ねば本当に死が分かるのか?これはやはり比喩であろう。意識がないのだから、死んで分かることなど何もない。それだけ「死」というものは理解しがたいのだと。
玄侑宗久住職の言葉は、人のいろいろを感じさせる。人が死んでもしばらく意識は残っていて、火葬されるときに熱いだろう、土葬されたら体内に蛆がわいて嫌だろうなどと考えたこともないが、実際にそんなことを考えるのかと、人間の想像力の範囲に驚く。死後に少し意識が残っていたとしても、熱いと感じるのは意識ではなく神経組織であるから、意識だけで熱くはない。
「火傷をしたら熱いだろうな」というのは想像意識は可能だが、意識は神経に作用しないから熱くはならない。小学2年生の子どもだからそう考えたのだろう。痛い夢や熱い夢を見るが、夢には不思議に痛感がない。やはり意識の世界だからだろう。夢でいうなら絞首刑になった夢を見たが、ロープに吊るされながら、「これから自分は死ぬんだ」と考えながらも、苦しさや痛さはなかった。
死んだ夢、死ぬ体験の夢は何度も見たが、目が覚めたときにホっとする。生きててよかった、夢でよかったと…。昔から、「夢逆さ」といい、自分が死ぬ夢は自身目標や願いが現実のものとなる吉夢だという。それは信じないが、「正夢(まさゆめ・せいむ)」、「予知夢」というのは何度か見た。翌日のある場面が夢となって現れるのは、何とも説明のつかない不思議さを感じる。
「死んで花実が咲くものか」という言葉があるが、まこと日本語を味わう上でよき言葉ではないか。「花実」を「花見」と勘違いする人もいるが、来週は気の合った者数名と花見。場所は、「みほり峠」といい、和麺旬彩の食事処である。知らない人間が、「峠で花見って珍しい。桜があるんか?」という。花見の時節に桜の下ではなく、どこぞの店で飲み食いも、「花見」という時代。