生きるということは死に向かうことだが、70代の将棋仲間がこんなことを問うてきた。公民館のロビーでのことだ。なんでまたそんなことをと思ったが、彼の考えに興味もあったがその問いとは、「死後の世界を信じますかね?」。自分はあえて躊躇い気味の顔と口調で答えた。「行ってきた人に話を聞いたわけではないし、私はないと思います」。「でも、あるんですよ」。
幽霊やUFOなどを、「いる」、「ある」という人は少なくない。「あるんですか?なぜでしょう?」、「実はそういう本を読んでから移行、信じるようになりました」、「地獄とか極楽のようなところです?」、「違います。あれは宗教思想がもたらせたもので、死後の世界とは普通の世間のようなところです」。何かに取りつかれたように信じる人は、話を聞くだけでうっとうしい。
ましてや空想や根拠のないことを一方的に話されても、興味のない人にとっては黙って聞くだけでも煩わしい。「だから死後の世界とは死んでも生きてるってことです」という。話を終わらせたい自分は、「そうですか、自分は死んでも生きていたくないので死後の世界はいりません」といえば、死後の世界について話す相手ではないと見切ったのか、それ以上何もいわなかった。
「死んで生き続けて、だからどうなる?」というのが根底にあり、相手にも伝わったのだろう。若いことなら何かと興味を抱くようなその手や観念論にうつつを抜かしていても仕方なかろう。何よりも摩訶不思議なのは人間である。だからか、人間関係や人間の機微についての思索が断然面白い。死んでも生きていたい人はいるんだろうが、死後の何が楽しいのかは想像もつかない。
美味いものでも食うつもりなのか?べっぴんさんとイチャイチャしたいのか?楽しからずやただ生きているだけなら、そんな生でいいのか?霊魂は死んだ年齢のままで年をとらないというが、あまりに矛盾していてバカバカしい。人は死んだらそれでいいし、余計なことなど無用である。いろんな考えがあるから、いろんなことをいう人はいるが、「信じて疑わぬはバカばかり」である。
モンテーニュの言葉だが、今時の政治家も二言めには、「断じて、断じて…」と喚いている。断じてを強調するのは信じて疑わぬといいたいのだろうが、なんとお粗末であろう。一体われわれが何を知っているのか。モンテーニュは自身の書斎の梁に、「クセジュ(私は何を知っているのか)」と刻んでいたという。毎日のようにそれを味わい、肝に命じていたのだろう。
多くの人がガンという病気でこの世から去っていく。いつの世にもみられることだが、「人は病気で死ぬのではない。生きているから死ぬのだ」とモンテーニュのこの言葉に、あらためて死が絶対であることを教えられる。これほど平明で、根本的な言い方はおそらくないであろう。我々は死ぬが、死んでどうなるものでもない。それなのに、死んでどうなるこうなるという人がいる。
一人で信じていれば害はない。「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」と孔子はいうが、なんという気取った言葉であろう。こんな言葉を有難いと思わぬところが凡人であり、それを凡人というなら何の不足もない。いかなる賢者であれ、富裕者であれ、社会的貢献者であれ、美女であれ…、死は誰をも容赦はしない。と、そういうことなら受け入れるしかない。
死ぬことに文句をいっては遺憾。とはいいつつ、誰もが死を嫌がり怖がる。だから宗教が生まれた。宗教は死の不安をやわらげ、死に希望さえ与える妙薬である。いろいろな人の死が知らされるこんにちにおいて、死という一つのことを、いつも同じ一つのこととして見、かつ考えるということも大切だ。「桜の花はいつ見ても美しい」と誰もが感じるのは自然なことである。
人の死も誰の死であれ悲しいものだ。悲しくない死があるとすればそれは自分の死であろう。逝くものは悲しからず、残されたもののみ悲しい。もし、人の死を喜べるなら、自らの死も喜ばしいことになるのか?いや、そうではあるまい。自分の死が悲しいから人の死が悲しいのである。人の死を受け入れるがごとく、自分の死を受け入れる準備をするのかも知れない。
「人は死後も存在する」と信じる人、「死後の命を生きながらえる人も、別の何かに生まれ変わる来世の命」というは、合理性のある論ではなく感情である。いわゆる信仰といっていい。先に述べた死の恐怖を軽減したり抑制したり、そういうところから生まれてきたものであって、人間は死してまで生きたいというより、希望を抱くことによって死の恐怖から逃れたいのであろう。
希望をもって死ぬ、そのことに何の罪はない。だから、あの世でナニをするとかカニをするとかの具体的な議論は無意味であって、希望を持って死ねばよい。病気になるのは避けられない。不治の病に侵される人にも何の因果もないと考える。ただし、老化のどうしようもない帰結に異論はない。が、どちらも生の活力を減退させるものであるなら、人は病や老化と闘うべきである。