謝罪のバーゲンセールといえば女性。口からとめどなくでる、「ごめんなさい」。女性らしい控えめ感はあるが、希薄な人間関係を保って行こうとの知恵もあろう。男同士に表層的な謝罪は空しい。男はむやみやたらに謝罪をしない理由として、プライドが邪魔をする事もあるが、自尊心をかなぐり捨てた謝罪に真の男らしさであるなら、自分を無価値にする謝罪がそうそうあるべきでない。
男と女はその面からいってもつくづく違う世界観をもっている。前記したように、謝罪は自らを徹底的に無価値にすることで美しく輝く。自分を無価値にすることは、相手を高めることでもあり、真実を大切にし、真実の前において自尊心は価値を見出さない。他人の観念のなかで自らの架空な存在を飾り、それを保とうとするあまり、真の自己をないがしろにする人間を小物という。
人間が真の自分の存在に気づいたとき、他人のなかにある架空の自分に酔っている場合ではない。人は人はむやみに評価もするが、それでも他人から称賛を貰えば気分はいいし、それが架空の自分であることに気づいていてもである。「褒められれば素直に喜ぶべし」は、人間関係において大事。だから、「ありがとう」くらいはいってもいいが、心のなかで真の自分を直視すべきではないか。
評価を求む以上謝罪も厭わぬこと。自らの失態や過失で生じる謝罪は、自らの非を認める美しさである。誠実な謝罪ができるか否かは人間としての美学でもある。人として美しくありたいを望むなら、謝罪は精神誠意の限りを尽くして行うこと。人間はどれだけ自分に素直になれるか、忠実になれるか。そうした心が飾らない美しさが人間を歪めない。心が歪むというのは、虚を演じるからであろう。
弱いものいじめをする人間は弱い。人を見下げる人間は利口にあらず。自慢に依存する人間はいつまでたっても自信をもてない。こういうことから考えても、「強い」、「賢い」、「自信」というのが何に関連するのか見えてくる。弱いものをいじめなければ、人を見下さなければ、自慢話を吹聴しなければ、それだけで上記のものが授かっている。自分は授かりたいために実践したわけではない。
何かを身につけるために何かをやってみるというのはあるとは思うが、経験的にいえば、目的のための手段よりも、目的を排した手段は無意識に何かを宿らせたりするものかも知れない。「忙しい」、「疲れた」、「面倒」は自らに課す3つの言葉で、「これを言っちゃ~おしめーだよ」という自己暗示をかけながら強いることから始めるが、不思議なもので慣れてくると当たり前になる。
「なにが忙しいもんか、このボケナスめ!」、「疲れてもいないのに弱音を吐くなよタコが!」、「何を横着なことを抜かしてんだ、バカもんが!」などと、きつく自分を侮辱する。自分を可愛がらない点において難しい。こんな自分は自分が許せないというのが根底にある。人間は自分を甘やかすものだから、甘やかさない生き方もあってもよかろう。甘やかすと腑抜けになるのは分り切っている。
ある時、「自由」について考えたことがある。若者が考える自由とは、「食べたいものを食べたいときにたべる」、「行きたいところに行ける時間と金がある」、「寝たいときに寝、起きたいときに起きる」、「欲しいものは何でも手に入れられる」、「誰からも指示・命令されない」。所詮はこんなものだろう。が、果たしてこれを、「自由」といえるのか?こんなことで社会で生きていられるか?
考えてみれば誰にでも分かることを考えもせず、「自由が欲しい」、「自由になりたい」というのがいかに愚かであるか。「我らに自由を与えよ」というのは、言い草としては尤もであるが、哲学的思考でいえば間違い。「黒人解放運動」や、「差別撤廃」における自由というのは、理不尽な制度で自由を奪われた人達である。決められた時間に起きて出勤の準備をするのは報酬をもらう以上は当たり前。
「食べたいときに食べたいものを食べれない」のは、報酬の問題もある。だから、自由を望むなら努力してお金を稼ぐということに行き当たる。観念事や絵空事なら誰でもいえるのは、何の努力も行動も不要であるからだ。「自由」についての結論は、「自由とは使うもの」であった。自由が得られるか得られないかは、周囲の事情から決まるのではなく、自由を使う使わないは自分次第で決まる。
我々は多くの決まり事や制限や自制心も含めた不自由のなかで生きている。そのなかで自由を求めることは、「不自由を自由に使う」ということ。「バカとハサミは使いよう」という言葉は、「バカを並の人と同じやり方で使うからダメなのであって、そのバカの性質をよく知り、性質にあった使い方をすれば、なまじ利口な人間より役立つ。「バカは死ななきゃ治らない」という見方もある。
が、使い方からすれば、バカを生きたままでうまく使うのが、「自由」であって、いかに利口者といえども、彼の性質を知らずにこちらの勝手だけで動くはずもない。人を自由に動かすというのも自由の使い方である。だから、「自由は(自ら)使うもの」。自由を人から与えられてもらうもののように考えている間は、いつまでたっても自由は得られない。再度しつこく、「自由は使うもの」。
傍から見れば百姓は、米、トマト、ナス、キュウリを自由に作っているように見えるが、トマトはトマトの種からのみ生えてき、米はモミを蒔くより他に手はない。土地や水や光などの条件も必要で、それなくして百姓の努力だけでは何一つ自由に作り出すことはできない。生きるためには生きる法則があるように、社会には社会の家庭には家庭の農業には農産のための法則があるのだろう。
「好きなときに好きなものを食べたい」自由は制限が必要だが、食わねば生きて行けない不自由を、食って生きるという自由に変えるのは可能である。自由の根源は必然であって、人が欲望を自由と勘違いしていることは山ほどある。我々は、どうにもならぬ必然に縛られているからこそ何でもできる。言い換えるなら、「不自由であるがゆえに生きる力を得ている」ことに気づいていない。