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人を判断することの難しさ ②

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誰とでも仲良くできるわけではない。人と人との関係において、気の合う合わないくらいは子ども時代からあろうし、みんな知っている。ある程度の年代になると付き合う相手選びが重要になるのは、若いころに比べて充実した日々を送りたいとの気持ちが強まるからだろう。若い時代には無駄はなく、すべてが肥やしというが、肥やしもへったくれも必要ない年代になると無駄は避けたい。

人選びが卒なくできるようになるのも経年で得た能力の一つか。人間は年季が入ると図々しくもなり、人の心の奥を覗く眼力が身につく。だから、人選びに苦渋することも苦労することもない。人選びをすることは、人からの選ばれ方も同時に考えるようにもなる。どちらもストレスのない人間関係を構築するために必要だが、相手からの選ばれ方にも気を配るとにも方法がある。

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       人を誘うのはやはり自分の都合であり、同じ趣味仲間といえど種々の都合もあろう…


将棋相手を誘うときなどに、こちらが誘いたい相手であっても、相手は誘われたくない場合もある。それがハッキリわかるまでにはある程度の時間も必要だ。無理に誘って相手に断る口実を考えさせるだけでも罪ではないかと。気の向かないままに出向いてもらっても、互いに良いことにはならない。断ることに苦労も遠慮もない自分だが、断ることが拷問の苦しみという人もいる。

酒も飲まない、出かけるも好まなかった若き日の自分は、断ることは日常であったがだんだん慣れてくる。「付き合いが悪いな~」などと評されようと、自分がしたくないことを強要されても罪の意識はなかった。人間関係の本質を悪くいうなら、自分の都合で相手を利用することで、「付き合いの悪い奴」などの言葉はあきらかな強要といえる。こういう人間と親しい関係になることはない。

いいではないか?無理をいってくる人間とつき合わずとも。人は人の都合を理解し、思いやるのが大事。「お金を貸して欲しい。こんなことは友達だからいえる」などといってくる。「友人なら無理をいうべきでない。これが自分の友人の定義」そんな風にいったりもしたが、自己にも他人にも甘えた人間は、自分が提示した言葉を理解することもなく、自己の勝手な都合で無理をいう。

人間の基本は自己中心で他人に厳しい。コメント欄に嫌な書き込みをされてブログを閉じた人がいた。「嫌なコメントにどうしたらいいですか?」と聞かれたこともある。一般的には、「相手にしない」、「無視する」、「自信があるなら反論する」などがよいとされるが、方法論ではなく根本解決としてこう説明した。「見知らぬ他人が自分のブログで誹謗・中傷コメントした。

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       いろんな方法があっていいが、これは、どこか強がりっぽい感ありて、自分に向かない


こういう人間は例外なく愚かでバカな人間です。なぜなら、相手が勝手にこちらの記事を見つけたわけです。見つけてと頼んだのではないのに、勝手に見つけて勝手に嫌な気分になったからと相手を文句をいうのは、どう考えても相手のひとり相撲で、こちらに罪はない。じっとしてれば嫌な記事に触れることもなかったハズです。本質的バカと見下せば気にならないのではないです?

罵る相手にどう対処するという方法論より、愚者を見下す強さを育む。これはいじめにも通じる。「いきなりはできないかも知れません」との返答だったが、間違いではないので努力目標に掲げたらいい。遜ることも怒ることもないままに、愚者を愚者と見定める強さは、今後の日本人にも必要である。強い意識を持って落ち込まず、下種な相手を無用な言い合いすることもない。

道理が解決してくれる。道理に合わぬことは可笑しく歪んで見える。いつごろからかそう考えるようになった。「無理が通れば道理引っ込む」という諺は、「道理に合わぬこと一切は無理」と同じこと。老子は「道」を説いた。「無為自然」という道であり、それは礼節を重んじる儒学思想への反動であったようだ。礼節は大事であるが、それは主体的なものでなければならない。

礼節を無理強いすると人心が離れる。一例をあげると、礼儀作法にうるさい人がいたとする。その人のところに行くだけで、あれこれ気を使うし、緊張もする。そういうことから段々と会うのを避けるようになり、遂には会いたくないというところまで膨らんでしまう。礼節は大事だが、それで人心が離れては何もならない。『老子』第8章には「上善水の若し」とある。

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       むか~し、中国人留学生に「老荘は?」と訊くと、「あれは理想」といった

水の居所は常に低い所にあるが、人は高きを好み低きを嫌がる。高いとことにいながら低い目線で周囲を見る人間に徳はない。居所というのは、人の生活の本拠であり大切な所である。老子は、自分の居所を善くするために心がけることとして、自らのことを成すより、自分の周囲を善くすること、周囲のために何かを成すべきと説いている。それが自分を善くすることだと。

高い目線から人に接すれば人は寄ってはこない。ざっくばらんで和気藹々な人柄に人心は高まる。形式主義で道徳的な儒学思想に対し、「無」の思想は魅力的である。「無為」とは名利に関係のない目出たぬこと。「無事」は、人の平静な心を乱さぬこと。「無味」とは淡白で旨みのないこと。美や善は人の虚栄心をそそるものだが、上徳とは善を意識せずに善を施す無為をいう。

礼にうるさい人はいかめしい。ざっくばらんな人には気軽に触れ合える。バカと利口の存在は明らかだが、善人・悪人の区別は難しい。Aにとっての善はBにとって悪になる。オスカー・ワイルドはこんな言葉を残している。「人間を善い人と悪い人に分けて考えるのはバカげている。人間は魅力的であるか、退屈であるかそのどっちかなのだ」。道家は魅力的だが儒家は退屈的である。

心を打ちとけて遊ぶ相手がいない。気持ちが通じ合える友人がいない。周囲は誰も自分を分かってくれない。こういう気持ちが孤独感なら大したことではない。なぜなら、適当な相手が現れれば解消できる孤独であるからだ。愉快に喋り、一時的な気持ちを紛らわせてくれる人間は簡単に見つかる。そうではなく、心の支えになる賢人(の書)を「友」とするなら、人を孤独といわない。

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    かつて寺山修司は、「書を捨てよ、町へ出よう!」といった。昼に町へ出、ねぐらに戻って本を読む!


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